2020年01月17日 公開
2020年01月17日 更新
東寺(京都市南区)
嵯峨天皇より空海に下賜された真言密教の根本道場。世界遺産。
「令和」という新時代を迎え、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は嵯峨天皇をお届けします。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1446年=延暦5年(786年)9月7日、桓武天皇の第二皇子として誕生された神野親王で、母は皇后・藤原乙牟漏である。先帝の平城天皇は12歳年長の同母兄であり、異母弟が次の淳和天皇である。先帝・平城天皇に続いて藤原式家の藤原良継が外祖父である。
皇紀1466年=大同元年(806年)5月19日、神野親王(嵯峨天皇)が立太子され皇太弟となられる。平城天皇には皇子もおられたので、これも先帝・桓武天皇の遺詔があったものと思われる。
皇紀1467年=大同2年10月、前述の通り、「伊予親王の変」が起き、藤原吉子(藤原南家是公の娘)と伊予親王母子が川原寺に幽閉される。
11月12日、伊予親王は母・藤原吉子とともに川原寺(現・弘福寺)で無実を主張し続けられるが認められず、毒を飲んで自害された。藤原北家による藤原南家潰しといわれる。
後のことであるが、皇紀1479年=弘仁10年(819年)3月21日、嵯峨天皇が「朕に思うところあり、故・皇子の伊予親王と夫人の藤原吉子の本位・本号を復せ」と詔された。伊予親王は嵯峨天皇の異母兄(母は南家の藤原是公 )に当たり、皇位継承者の最有力候補であられた。天皇が「思うところあり」と表明されたということは、天皇ご自身伊予親王の無実を感じておられたのであろう。
藤原家の内部抗争が激化し、他家(ここでは武智麻呂を祖とする南家)潰しが行われ、伊予親王もその犠牲となられたのであった。
皇紀1469年=大同4年(809年)4月3日、先帝で兄の平城天皇が在位3年、36歳で神野親王に譲位され、13日に親王は24歳で嵯峨天皇として即位された。
この日6月13日、橘奈良麻呂の孫娘・橘嘉智子(檀林皇后)と多治比高子を夫人とされる。橘奈良麻呂は聖武天皇の御世に左大臣を務めた橘諸兄の子である。
橘諸兄は敏達天皇の後裔で大宰帥・美努王(みぬおう)の子であって元皇族である。多治比氏も宣化天皇の三世孫・多治比古王を祖とする元皇族で、河内国を根拠地としておられた。
この年、天皇は兄・平城上皇の第三皇子で甥の高岳(たかおか)親王を皇太子に立てられた(後に廃される)。嵯峨天皇ご自身にも皇子が多数おられたが、兄・平城上皇の皇子・高岳親王を皇太子に立てられたのである。
皇紀1470年=大同5年(810年)9月6日、平城上皇は、「平安京を廃して平城京(旧都)へ遷都する」という詔勅を発せられた。そして「平安京より遷都すべからず」との先々帝・桓武天皇の勅があるにもかかわらず、上皇は旧都である平城京に遷された。
薬子と兄の藤原仲成は、平城上皇の復位をもくろんで平城京への遷都を図り、上皇を通じて今上(嵯峨天皇)の朝政にも上皇として干渉されたといわれる。これで平城上皇と嵯峨天皇との謂わば二朝対立という不幸な状態が発生してしまう。
遷都の詔勅は嵯峨天皇にとっては意外であったが、ともかく詔勅に従い、坂上田村麻呂、藤原冬嗣(北家)、紀田上(きのたがみ)らを造宮使に任命する。信頼の置ける臣下の者を派遣し、兄・上皇側を監視する役目を担わされたのであろう。ところが上皇の遷都の詔が発せられて、当然のことながら朝政が非常に混乱したので、嵯峨天皇は上皇の意に反して遷都を拒否することを決断された。
更新:11月22日 00:05