2020年01月27日 公開
2020年01月27日 更新
「令和」という新時代を迎え、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は淳和天皇をお届けします。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1446年=延暦5年(786年)、桓武天皇の第三皇子として誕生された大伴親王で、母は藤原百川(藤原式家の祖・宇合の八男)の娘の旅子で、先帝・嵯峨天皇の異母弟である。
2歳で生母(旅子)を失い、父・桓武天皇は有能な女官であった平田孫王を親王の母代わりとして付けて、養育させられた。
皇紀1464年=延暦23年(804年)、桓武天皇の皇女(母は藤原乙牟漏)・高志内親王が入内され、翌皇紀1465年=延暦24年、第一皇子・恒世親王を産まれた。皇紀1469年=大同4年5月7日、恒世親王の生母・高志内親王が薨去され、淳和天皇即位に伴って皇后が追贈された。
皇紀1470年=大同5年(810年)9月13日、皇太子・高岳親王(平城天皇の皇子)が薬子の変で皇太子を廃されたので、皇太弟となられる。
皇紀1483年=弘仁14年(823年)4月16日、先帝・嵯峨天皇が皇太弟・大伴親王へ譲位される。
4月27日、先帝で異母兄の嵯峨天皇から譲位を受け、淳和天皇として38歳で即位される。
再び皇位の兄弟継承が行われた。
淳和天皇にはこの時点ですでにご自身の皇子として、桓武天皇の皇女・高志内親王を母とする恒世親王(19歳)がおられたが、先帝で兄の嵯峨天皇の第二皇子で甥の正良親王(14歳、仁明天皇)を皇太子に立てられた。
11月17日、大嘗祭を催行される。
皇紀1483年=弘仁14年(823年)、嵯峨天皇の皇女・正子内親王が入内され、皇后となる。
皇紀1484年=弘仁15年1月5日、元号が天長に改元される。
皇紀1484年=天長元年(824年)7月7日、平城天皇が崩御される。
皇紀1485年=天長2年(825年)、皇后・正子内親王が皇子・恒貞親王を産まれる。そしてこの恒貞親王は後に仁明天皇即位のとき皇太子に立てられる。
天長2年7月6日、桓武天皇の第三皇子・葛原親王が王子(桓武天皇の孫王)を臣籍降下させることを願い出たので許された。平姓を授与され、これが桓武平氏の祖となる。
のちに、葛原親王の第三王・高見王の子・高望王(桓武天皇の曾孫)が上総介に任じられ、関東に下ってそのまま土着し、坂東平氏の祖となる。彼らは、任期が過ぎても帰京せず、上総国・下総国・常陸国の未墾地を開発して私営田を増やし、勢力を拡大した。
皇紀1493年=天長10年(833年)2月28日、「譲位の宣命」を発せられ、在位10年(9年10ヶ月、皇統譜では在位11年)にして48歳で甥の皇太子・正良親王(24歳、仁明天皇)に譲位された。そして3月2日に太上天皇となられ、離宮の淳和院に住まわれた。
第50代桓武天皇の皇子が兄弟継承され平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と3代続いた。
皇紀1500年= 承和7年(840年)5月8日、退位されて7年後、55歳で崩御された。
更新:11月22日 00:05