2020年02月04日 公開
2020年02月04日 更新
「令和」という新時代を迎え、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は仁明天皇をお届けします。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1483年=弘仁14年(823年)4月18日、正良親王が14歳で立太子される。
皇紀1493年=天長10年(833年)2月28日、正良親王が叔父に当たる淳和天皇からの譲位を受けて、3月6日「即位の宣命」が発せられ、仁明天皇として24歳で即位される。そして、この年11月15日、大嘗祭を催行された。
淳和天皇譲位の2日後、嵯峨上皇の意向により、淳和天皇の第二皇子・恒貞親王が9歳で立太子される。
以前、皇紀1483年=弘仁14年(823年)、第52代嵯峨天皇が異母弟の大伴親王に譲位され、第53代淳和天皇が即位された。次いで皇位は、皇紀1493年=天長10年、嵯峨上皇の皇子・正良親王(仁明天皇)に継承され、仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子(9歳)の恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女・正子内親王)が立てられたのであった(後に廃される)。しかし、恒貞親王は仁明天皇の15歳年少ではあるが同じ世代・世系35である。
ところがこの頃、藤原良房(藤原北家・藤原冬嗣の次男)が嵯峨上皇と皇太后・橘嘉智子の信任を得て急速に出世し台頭してくる。しかも良房の妹・順子(のぶこ)が仁明天皇の中宮となり、皇紀1487年=天長4年に道康親王(文徳天皇)が誕生する。当然のことながら良房は道康親王への皇位継承を望む。
道康親王を皇太子に擁立する動きがあることを察せられた皇太子の恒貞親王と父の淳和上皇は、しばしば皇太子辞任を願い出られるが、その都度、嵯峨上皇に慰留された。上皇としては皇太子の恒貞親王が皇位を継承してその次に道康親王に譲位すればいいとのお考えだったのかも知れない。
淳和天皇の第二皇子・恒貞親王は、異母兄である第一皇子・恒世親王が薨去された後、淳和天皇の後継者となられるが、淳和上皇と恒貞親王は政争に巻き込まれることを憂え、度々皇太子の辞退を願われたものの、その都度嵯峨上皇や仁明天皇に慰留されていたのであった。そして承和9年(842年)、嵯峨上皇が崩御されて間もなく発生する「承和の変」により、恒貞親王は結局皇太子を廃されることとなる。
皇紀1500年= 承和7年(840年)5月8日、淳和上皇が崩御され、続いて2年後の承和9年7月15日、嵯峨上皇も崩御され、恒貞親王の立場が一変する。
更新:11月22日 00:05