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第54代・仁明天皇への皇位継承と承和の変

2020年02月04日 公開
2020年02月04日 更新

吉重丈夫

承和の変

前述のような状況下で危機感を持たれたのが皇太子・恒貞親王に仕える春宮坊帯刀舎人・伴健岑(とものこわみね)とその盟友の但馬権守・橘逸勢であった。

彼らは皇太子の身が危険と察し、皇太子・恒貞親王を東国へお移しすることにし、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談した。阿保親王は逸勢の従姉妹である檀林皇太后(橘嘉智子)にこの健岑らの計画を密書にて通知した。皇太后は事の重大さに鑑み中納言の良房に相談し、良房は仁明天皇へと上奏する。つまり、問題になっている相手方の中心人物に相談したのである。

嵯峨上皇が崩御された2日後の7月17日、仁明天皇はこの計画を反乱,謀反と見なされ、伴健岑と橘逸勢、及びその仲間と見なされる者らが逮捕された。皇太子・恒貞親王は直ちに辞表を天皇に奉ったが、皇太子には罪はないとして一旦は慰留される。

しかし、一週間後の7月23日になり事態は急変し、左近衛少将藤原良相(良房の弟)が近衛府の兵を率いて皇太子邸を包囲し、出仕していた大納言・藤原愛発(ちかなり、藤原北家・藤原内麻呂の七男)、中納言・藤原吉野(藤原式家・藤原綱継の長男)、参議・文室秋津(ふんやのあきつ)が捕縛された。

そしてこの日7月23日、仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係とされながらも、皇太子を廃された。

藤原愛発は京外追放、藤原吉野は大宰員外帥、文室秋津は出雲員外守にそれぞれ左遷される。伴健岑は隠岐(その後出雲国)へ、橘逸勢は伊豆にそれぞれ配流(橘逸勢は、護送途中、遠江国板築にて死去)となった。

仁明天皇と良房は嵯峨上皇崩御後直ちに皇太子・恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女正子内親王)追い落としを行い、皇太子派の者たちを一気に潰してしまった。伴健岑と橘逸勢とが失脚したことから、この変は藤原氏による最初の他氏排斥事件(橘氏、伴氏の排除)であったといえる。

この事件直後の8月4日、「道康親王を皇太子に立て給ふの宣命」が発せられ、仁明天皇の第一皇子・道康親王が恒貞親王に代わって新たに皇太子に立てられた。

良房は、この事件を機にさらに昇進し、のちに人臣最初の摂政・太政大臣となり、藤原氏北家の繁栄の礎を築く。

伴健岑や橘逸勢らが本当に謀反を計画していたのか、その準備をどの程度していたのかは定かではない。従って、これが良房らの他氏排斥を目指す陰謀であったと思われる。

のちに、『日本外史』を著した江戸時代の儒学者・頼山陽は、淳和上皇と恒貞親王が度々皇太子を辞退されたにもかかわらずこれを受け付けず、後に嵯峨上皇崩御を機に、事件にかこつけて恒貞親王の皇太子を廃した上で、天皇の自らの実子・道康親王を皇太子に立てたと非難している。

皇紀1509年= 嘉祥2年(849年)、先に皇太子を廃された恒貞親王(淳和天皇の第二皇子)が出家し、恒寂と名乗られる。平城天皇の第三皇子高岳親王・真如法親王から灌頂を受け、嵯峨大覚寺(京都市右京区嵯峨)を開山される。

のち皇紀1544年=元慶8年(884年)、第57代陽成天皇が退位されて、皇位継承問題が生じた際に、恒寂・恒貞親王(60歳)は還俗して即位することを要請されるが、これは辞退された。

皇紀1510年=嘉祥3年(850年)3月19日、天皇は在位18年(17年1ヶ月弱)にして皇太子の道康親王(文徳天皇)に譲位され、その直後の3月21日、41歳で崩御された。

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