2019年05月26日 公開
2022年07月14日 更新
戦国時代は、応仁の乱に始まると言われています。応仁の乱は、文正2年(1467、3月に応仁に改元)から文明9年(1477)まで11年間にわたって続くので、応仁・文明の乱とも呼ばれます。
室町幕府の有力な武家に、三管領四職と呼ばれる家があります。三管領は、将軍の補佐である管領を出す斯波家・細川家・畠山家で、四職は侍所の長官である所司を出す山名家・赤松家・一色家・京極家です。これらの家は、一国以上の守護でもありました。
このうち畠山家では、畠山義就と畠山政長の抗争が長く続いていました。
文正元年(1466)12月、義就は、山名宗全(持豊)に支援され、河内から上洛し、京都の千本地蔵院に陣を敷きました。
これに対して政長を支持していた細川勝元は反発します。
翌年正月、義就と対面した将軍足利義政は、政長に対し屋敷を義就に明け渡すよう命じました。政長は屋敷を焼き、上御霊社に陣を敷いて義就と対抗する姿勢を示しましたが、山名・斯波の加勢を受けた義就は、あっさりと政長の軍を破り、政長は勝元の分国である摂津に遁れました。
またこの年5月、失脚していた赤松政則が勝元の支援を受けて旧領播磨を山名氏から奪い返します。こうして、多くの守護大名が、勝元の東軍と宗全の西軍に分かれて争います。これが応仁の乱です。
将軍義政・義尚・義視は、勝元に保護されたので、最初は東軍が有利に戦いを進めました。
しかし、周防の大内政弘が海路3万の軍勢を率いて上洛し、西軍に合流したことから、西軍が有利になりました。すると、足利義視は室町第を脱出し、西軍の一色義直が守護を務める伊勢に下りました。義政は、弟の義視を次期将軍にすることにしていましたが、義尚が生まれたため、義視の地位が微妙になっていたからです。
義視は、いったんは京都に戻りますが、再び西軍に身を投じました。西軍は、義視を「将軍」として受け入れます。こうして将軍家の内部争いも加わり、乱は長期化することになります。また、京都が戦場になったため、京都の町が荒廃しました。
応仁の乱が終息するのは、文明9年でした。この乱によって、室町幕府の力は衰退し、戦国時代が始まるとされているのです。
しかし、応仁の乱が終息すると、9代将軍義尚(実権は義政)のもと、いちおう室町幕府体制が復活します。ただし、それまでは守護が京都の屋敷で暮らしたのですが、応仁の乱の間に守護の在京原則は崩壊していました。
将軍義尚は、長享3年(1489)、近江出陣中に25歳の若さで没します。義政と正室富子は、義視の子義材を10代将軍にしました。乱が長期化した原因が、義尚か義視かという将軍家家督争いだったことを考えれば、将軍家にとって応仁の乱はむなしい戦いだったことになります。
明応2年(1493)、将軍義材は、畠山基家(義就の子)を討伐するため、畠山政長とともに河内に出陣します。すると、細川勝元の子政元は、突然、将軍義材を廃し、天竜寺の香厳院清晃を将軍に擁立しました。還俗して義遐(のち義高、義澄)と名乗った清晃は、堀越公方の足利政知の子です。政知は義政の兄弟なので、清晃は義尚や義材の従兄弟になります。これを「明応の政変」と言います。
家臣によって将軍が廃され、別の者が擁立されるという衝撃的な事件でした。その前、清晃の出身である堀越公方家では、清晃の同母弟の潤童子とその母・円満院が、異母兄の茶々丸に殺害されていました。
駿河に下り、今川家に寄宿していた伊勢盛時は、将軍の母と弟を殺した茶々丸を討つとして伊豆に攻め込み、関東を制圧していきます。この伊勢盛時こそ、戦国大名第一号とされる北条早雲です。
早雲はよく「一介の浪人」などと言われますが、室町幕府の政所執事の家柄である伊勢氏の出身で、姉(か妹)が駿河国守護今川義忠に嫁いでいました。義忠は応仁の乱で戦死しており、盛時の甥、氏親が駿河国守護でした。こうした関係で、盛時は氏親の後見人だったのです。
明応の政変以降、室町幕府は有名無実の存在となりました。支配領域も、京都を中心としたわずかな地域だけになります。関東は完全に実力で領国を奪い合う戦乱の時代に突入していきました。こうしたことから、現在、研究者の間では、明応の政変以後を戦国時代とするようにもなっています。
※本稿は、山本博文著『東大流 教養としての戦国・江戸講義』(PHPエディターズグループ』より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月23日 00:05