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松永久秀、別所長治、荒木村重…「信長を裏切った男たちの誤算」

2018年12月17日 公開
2022年08月01日 更新

垣根涼介(作家)

最強国に対する「合従」は失敗する

別所長治は2年の籠城の末、天正8年(1580)に開城し、自害しました。

荒木村重は天正7年(1579)に有岡城を出て、2カ月後に城が落ちました。

そのため村重は、城と家臣を捨てて逃げた男と貶められますが、実際は毛利の援軍を呼びにいったと思われます。

ところが、織田の勢力に行く手を阻まれ、かといって戻ることもできず、結果的に見捨てた形になった。それを、織田方が「逃げた」と喧伝したようです。

天正5年から6年にかけて、織田信長に叛旗を翻して失敗した松永久秀、別所長治、荒木村重に共通するのは、本願寺、毛利など、他の勢力と連携して、信長に立ち向かおうとした点です。

では、組んだ相手が悪かったのでしょうか。

本願寺も毛利も、基本的に版図を広げようという意欲がないので、必然的に防衛戦になります。

防衛戦では、たとえ一時的に勝ったとしても、最前線の部隊が敵を追って進むことはない。負けないことはあるかもしれないが、勝ち切ることは絶対にない。

また、本願寺に大勢の信徒がいたとしても、しょせん「戦のプロ」の兵団ではありません。

他方、毛利においては、小早川隆景と吉川元春がそこそこ優秀でも、当主の輝元が凡庸なので、積極策に出ることはできない。

いずれにしても、最強の相手に対して、力の足りない者たちが連合して当たることで勝利を得ることは、まずありません。中国の戦国時代における最強の秦国と、それに対抗した韓、魏、趙、燕、楚、斉の「合従」は、その典型でしょう。

なぜ、「合従」では勝てないのか。

それは、最強国が個別に調略をかければ済むからです。事実、秦は個々の国と直接同盟を結ぶ「連衡」によって、「合従」を崩壊させました。

最強国に対する「合従」は失敗する──それなのに、信長を裏切った男たちは希望的観測をもって、叛旗を翻し、失敗しました。基本、他者を恃んで事を起こし、成功するほど、世の中は甘いものではない。

いわば彼らは、「政略」を重んじすぎたと私は思います。その点、明智光秀は違いました。

彼は、味方になってもらえそうな細川幽斎や筒井順慶に諮ることなく、単独で行動を起こしました。しかも、信長の首を直接、獲りに行っています。

「政略」ではなく「戦略」を優先したからこそ、信長を討つという目的を、光秀は達することができました。

独裁である信長と織田家の組織構造を考えたら、信長の首さえあげてしまえば、当面は空中分解状態に陥るのは自明でしょう。

まさしく大坂にいた丹羽長秀や、関東の滝川一益はただただ右往左往するばかりでしたし、北陸の柴田勝家も動き出しが鈍かった。

ところが、一つだけ光秀にも誤算がありました。羽柴秀吉です。信長が誰かに殺されることを予測したかのような秀吉の動きばかりは、光秀も想定できませんでした。

松永久秀、別所長治、荒木村重の本質的な失敗は、光秀のように自ら信長の首を狙わずに、他人頼みで裏切ったことに尽きるのではないでしょうか。

※本稿は、「歴史街道」2019年1月号特集《戦国合戦「失敗の本質」 何が明暗を分けたのか》より一部を抜粋編集したものです。

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