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松永久秀、別所長治、荒木村重…「信長を裏切った男たちの誤算」

2018年12月17日 公開
2022年08月01日 更新

垣根涼介(作家)

「有能な手足」は嫌だった久秀

このように、松永久秀と織田信長は良好な関係でしたが、「金ヶ崎退き口」があった翌々年の元亀3年(1572)、久秀は大和の多聞山城に籠城し、反信長の兵を挙げます。

久秀が多聞山城に籠もったのは、武田信玄の上洛に連携してのことだといわれます。久秀は信玄と手紙のやり取りをしていたようですが、なぜ、このタイミングで裏切ったのか。

その一因として、「あてが外れた」と久秀は考えたのではないかと、私は見ています。

先ほども述べたように、久秀は信長の「懐刀」となろうとしていました。久秀が信長に仕える前、京で警視総監のような立場にあったときにかなりの人脈を築いたのと同様に、織田家の中に人脈を広げ、自分の勢力を扶植していくつもりだったと思われます。

しかし、信長は参謀が必要ない人です。自分ですべて考えて決断するから、有能な“手足”があればいい。この頃には、そのことを悟って、織田家の中枢に入れないことを、久秀は確信していたように思います。

「有能な手足」という境遇は、久秀という人間には受け入れられなかった。

だからといって、自立してやっていける勢力でもありません。自分の生きる道は「懐刀」になることと考える久秀は、信玄に乗り換えようとしたとも考えられます。

それでも私には疑問が残ります。

仮に、西上する信玄が信長を蹴散らして京に入ったとしましょう。信玄が足利義昭を将軍として担いだら、久秀はどうなるのか。

裏切りを嫌う信玄の性格を考えれば、義昭の要求を容れ、将軍を殺した下手人である久秀は放り出されるに決まっている。下手したら殺されるかもしれません。

この件に関して、久秀が希望的観測を抱いてはいなかったと思いますが、信玄と組むことはかなり危険な選択肢だったはずです。

それなのに、なぜ信玄の上洛に呼応したのか。

想像を膨らませると、きわめて個人的な感情で動いたのではないかと思われるのです。

多聞山城に籠もった久秀は信長に許され、天正5年(1577)に再び反乱を起こして、信貴山城に籠城しました。

このとき、実に驚くべきことですが、信長はまたしても久秀を許そうとします。彼は久秀がよほど気に入っていたのでしょう。

が、久秀は、信長が送った降伏勧告の使者に対して、「わしの首と、平蜘蛛の釜を見せようとは思わない」と答えて、応じなかった。実際に平蜘蛛の釜を壊して城を爆破、自死し、自分の首を取らせませんでした。

この久秀の行動はきわめて感情的で、子どものようだと、私は感じます。

久秀は、「おのれほど頭の良い者は、この世にはおらぬ」と思っていた節があります。だからこそ、信長ごとき田舎者に完全に屈する自分に、我慢がならなかった。そしてこの感情こそ、久秀を信長に背かせた最大の要素だったのではないかと思うのです。

久秀の裏切りを見ていると、信長を相手にしてはまず勝てないことを覚悟していたように思えます。その覚悟がなかったら、降伏勧告を受けたときに迷ってしまって、断固として「否 !」と拒絶できないからです。

負ける公算は大きいけれど、何とか負けないところまでもっていき、五分五分の状態にすることで、信長上洛前の混乱した状態の畿内に戻す。そのためには自分の命も賭ける。

それが久秀の政略だったとすれば、万一のときは覚悟を決めて、破滅の道を選んだということもできるでしょう。
 

先が見えてしまうがゆえに…

松永久秀が信貴山城で最期を遂げた翌年の天正6年(1578)、播磨の三木城主・別所長治が、織田方から毛利方に寝返りました。

信長と敵対していた本願寺の信徒が、播磨に多かったことが一因だと考えられます。

織田家では小牧山城から岐阜城に移転した時点で、佐久間、林といった重臣以外は、家臣の知行地の年貢を、織田家が代行して徴収するようになっていました。

要するに、収入の首根っこを押さえられている。だから、信長がやれといったら、家臣は一生懸命にやるしかない状態です。

一方で別所家の体制は、織田家とは違います。家臣たちがある程度、独立していて、長治に信長のような独裁力はありませんでした。織田家に叛旗を翻すことは、合議(加古川評定)で決められたことなのです。

本願寺側の被官が反信長を主張し、その数が多ければ、本願寺、毛利と組まざるを得ない。だから、織田方を離れて毛利方に走った。そういう面が大きかっただろうと思います。

この別所長治の離反に続いて、八カ月後に荒木村重が摂津の有岡城に籠もって、叛旗を翻しました。

村重はもともと、どこの馬の骨かわからない人物です。丹波から出てきた地侍ではないかとの説もありますが、摂津で一番の国人勢力である池田家の重臣に、一代でのしあがった。

そういうところは久秀と似ていて、有能だったことは間違いありません。

村重が信長に仕えるようになったのは、足利義昭と信長の関係が決裂したとき、主君が義昭についたのに、村重は信長についたことから始まりました。

その際、信長が差し出した刀に刺さった饅頭を、村重がひと口で食べ、それで摂津を任されることになったという逸話がありますが、史実を元にしたものかどうかはわかりません。

ただ、織田家に入ってからの村重の出世は最速といわれるほど、異例なものでした。義昭ではなく信長を選んだことが物語るように、目端が利き、先が見えるところを信長は評価したのでしょう。

逆にいうと、自分の先も見えてしまったのではないかと、私は思います。つまり、信長に仕えている自分が、「使い捨ての駒だ」ということがわかってしまった。

家臣を使い捨てにするといっても、信長の側に悪気はありません。

完璧な組織にするために、勢いのある家臣を登用し、働かせる。そしてパフォーマンスが落ちてきたら、他の勢いのある者と替える──非常に合理的な考え方ではあります。

しかし、それゆえに信長は、裏切られ続けたともいえます。

当たり前ですが、使い捨てにされる立場からすると、信長のこうした思考はたまったものではない。これこそが村重が裏切った最大の理由であり、本質的には松永久秀の裏切りにも通じるところがあります。

その点、別所長治は二人とは違うように思えます。長治は地場の大名であり、自分の領地を侵食されたくない、守りたいという思いがあった。

これは、典型的な戦国大名の論理です。

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