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命令か、志願か…『あゝ同期の桜』の 生き残りが語る特攻の真実

2019年01月09日 公開
2022年06月23日 更新

海軍反省会

特攻をさらに悲惨に見せている当時の組織の中の事実

したがって「卒業が特攻となった一四期」ということがあるように、昭和19年12月25日に海軍少尉に任官したときには、すでに特攻要員であったと。

まあ、特攻要員になったやつは幸せだったというのが現実でございます。

だからあえて記録がないようなことを申し上げますと、ある特攻隊員が基地を発ちまして特攻に出撃したと、これが午前3時搭乗員起こしで、4時に出撃なんですが、要するに8時間(飛行できる)燃料の白菊でございますが、すでに全燃料を使い果たして何度も何度も敵に向かって探して飛んだのだけど、当日、上層部の(作戦中止)命令の決定が行われずに通信が届かずに、特攻中止の命令が届いてないまま、要するに3機編隊で通信機は1機しか積んでいないわけです。

そうすると編隊長が乗っておった私どもの同期の連中は積んでおるんですが、その通信機もあまり通じないので、命令が聞こえないまま、探しに探してついに沖縄のある島に不時着して九死に一生を得て帰ってきた男がおります。

これは帰ってきましたら分隊長に殴られまして、意気地なしだということで。未だに彼は兵学校出身のその分隊長に対して個人的な恨みを持っておる、というやつもおるわけです。

ということは、俺はやるだけのことはやったんだと、敵がいないのにただ突っ込んでもしょうがないから、まあ探すだけ探して燃料のある限りやってみたけど、負傷して帰ってきた人間が修正されるという事実なんかもあるわけです。

我々予備学生と予科練習生の特攻隊員の中にはそういう経験者がかなりおって、これが非常にその、特攻というものの現代の我々の歴史研究のためには甚だ良からぬ印象を持つ人間が多いということもまた事実でございます。

こういうことが特攻作戦の現実でありまして、大西(瀧治郎・兵40)中将が、若いものだけでは行かせないぞ、と言って、以心伝心で搭乗員が大分で長官の姿を見ながら、俺たちが先に行かなくて誰がやるんだ、という(気持ちだった)この事実だけは歴史の事実として後世の若いものに語り継いでいく、何かの記録を作るべきではないかというのは、功罪で言えば罪のほうの特攻の現実ではないかと思います。

同時に私どもが送るときに必ず彼らは風防を閉めるときに同期生の顔を見て目と目が合って彼らは風防を閉めて出撃して行ったという、これはあとを頼むぞということだと思いますが、あまりにも若い21歳22歳の海軍少尉の姿は40何年経っても私の脳裏から去らないのであります。そんなわけで、鳥巣(建之助・兵58)さんの研究にそういったこともひと言記録に残して頂きたいということは私の意見です。
 

アメリカ兵を異常心理に追い込んでいた特攻機の恐怖

次に功のほうを申し上げますと、数年前に私がペンタゴンに行きまして。アメリカの太平洋戦争における写真の提供を頂きたいということで行きましたときに、たまたま向こうの退役した海軍少佐という人が私をとっつかまえまして、おまえは記録によると海軍航空隊員だったんだろうと。

そうだ、と言うと、俺は護衛空母に乗っておったがお話ししたいことがあるから今夜都合つけろと言う。

結構だ、ということで、ゆっくり将校クラブで話し合ったのですが、そのときに出た言葉は、日本の特攻機の恐ろしさは、もう筆舌に尽くしがたいと。

そのときその少佐の人は兵隊上がりだったと思いますが、ボースン(掌帆長)だった。機銃要員も砲台員も何もかも兵隊はクレージーになっていて、正常な状態ではなかった。艦隊軍医長もその状態を見て、艦隊参謀に対して沖縄作戦はもうこれ以上続行することは不可能だと上申して、すでにそうしようじゃないかということが我々の耳にも噂は入っていたと。

我々もということはかなり下のほうまでということです。

それほどの恐ろしさで、いつどこから何が飛んでくるか分からないというのがアメリカの艦隊乗組員の心情でして、オフィサー(士官)を除いては、ほとんどものの用に立たないと、そういうような極限の状態まで追い込んだのが、菊水作戦の七、八号作戦の日にちと、彼らの言った日にちとがぴったり一致しております。

そのことは沖縄の菊水作戦の後半はかなりの戦果があったという、そして戦争終結を早めたということの結果と考え合わせてみるとそこにある一つの符合を感ずるわけです。

それで、こういったことを一生懸命今ノートに記録しているのが現状でございます。
 

邪道な作戦の中で明らかになるもの

たしかに特攻作戦は作戦としては邪道だと言うけれども、事実、その要員として先頭に立って戦ったのはまだ、180時間から200時間しか飛行時間のない飛行科学生出身の71期72期、それと予備学生の13期14期、予科練習生の甲飛の8、9、10期あたりが主力であった。

いずれにしても分隊長になった71期代でも200時間そこそこ、せめて武士の情でもう少し技量を上げてから作戦に参加させたらばよかったんではないかということを今日反省の一つとして挙げられております。

そのような激しい特攻作戦のさなかに、ある飛行隊の隊長は自分の部下を絶対特攻隊員に出さなかったということも私聞いております。

したがいまして、命令と志願ということの難しさというのを特攻作戦というのは明らかにしておるわけです。

そこでお聞き入れにならないかもしれませんが、私自身の提案として、私の同期で一回靖国神社に入ったけど、おまえまだ来るのが早いと追い返されたものが一人おります。

それと回天の搭乗員で私が懇意にする人間が一人おります。

せめて1時間ぐらいずつでも、彼らにことの真相を話させて、そして聞いて頂いてこれを記録に留めるということができましたら、特攻で戦死した連中も、もって瞑すべしと感ずるものでありますが、これは非常に貴重な時間ですからあえて主張できませんが、私の提案として是非1時間その実情実態を本人から聞いて頂ければありがたいと思います。

ですからこれは私の意見というよりもむしろ鳥巣(建之助・兵58)さんのこの文に対する蛇足かもしれませんが、お話をした次第であります。終わります。

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