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柴田勝家はなぜ、賤ヶ岳で敗れたのか~秀吉の謀略と利家の裏切り

2018年06月29日 公開
2022年06月07日 更新

井沢元彦(歴史作家)

前田利家
前田利家像(石川県金沢市)
 

『太閤記』が隠した、前田利家の「裏切り」

では、なぜ盛政軍は敗走を余儀なくされたのでしょう。

実は、この戦いの最中、『太閤記』には書かれていない事件が起きていたのです。それは茂山という山に布陣していた柴田側の軍勢が突如として戦線を離脱していた、という事実です。そして、この戦線離脱が拮抗していた戦いのバランスを崩し、盛政軍を敗走へ追い込んだようなのです。

では、戦線を離脱した柴田勢の武将とは誰なのでしょう。

それは、後に「百万石」と謳われる加賀藩の藩祖・前田利家でした。

前田利家と秀吉は昔からの親友であり、勝家とは上司と部下のような関係でした。柴田勢に加わっているので、勝家の家臣のように見えるかも知れませんが、利家の本当の主君はあくまでも信長、あるいは信忠で、勝家はあくまでも今で言う「上司」に過ぎません。勝家が北陸支社長なら、利家は本社から北陸支社に出向してきた部長といった関係です。利家は勝家の与力大名の一人でした。

この前田利家の「裏切り」とも取れる戦線離脱にはいろいろな説があるのですが、親友と上司の間に立たされた利家が、相剋関係に耐えられなかったのではないか、というのが今のところ一番有力な見解です。

利家は勝家の家臣ではないのだから、これは裏切りではないと言う人もいますが、それだったら出陣する前に引くべきだったと私は思います。出陣しておいて、みんながそこを任せて頼りにしているのに勝手に戦線離脱してしまったのですから、やはり裏切りと言われても仕方ありません。

利家にしてみれば、散々迷って出陣したものの、「やはり俺は友である秀吉とは戦えない」ということで抜けたのかも知れませんが、自分の持ち場を守らなかったのですから、戦国武将としてはかなりまずい判断だったと言えます。

これほど重要な事実が、なぜ定説になっていないのでしょう。

実際、昔からずっと賤ヶ岳の戦いは佐久間盛政が愚かな猪武者だったから負けたということになっていました。

そこで、これは誰が言い始めたことなのかということをずっとさかのぼっていったところ、寛永3年(1626)に出版された『太閤記』(『甫庵太閤記』)がそもそもの出典だとわかりました。『太閤記』というのは、ごく簡単に言えば小瀬甫庵という人が書いた秀吉の伝記です。『太閤記』には、小瀬甫庵の著作以外にも、享きよう和わ3年(1803)頃に出版された川角三郎右衛門が書いた『太閤記』(『川角太閤記』)などいくつかありますが、一番最初に書かれたのが小瀬甫庵の『太閤記』です。

小瀬甫庵という人は、もともとは織田家に仕えていた医者です。その後、豊臣秀次に仕え、最後は前田家に仕えています。

前田家は利家が亡くなったあと、利長が継ぎ、利長は自分の弟で利家の側室の産んだ子である利常に跡を継がせます。利常は、徳川幕府ににらまれるのを避けるために、本当はものすごく頭のいい人なのですが、わざと鼻毛を伸ばし、いつも口を開け、バカ殿を装うことで取りつぶしされないようにしていたということで知られる人です。

実は、この人が小瀬甫庵に書かせた秀吉の伝記が『太閤記』なのです。

当時は作家という職業はありません。江戸時代でも後半になると、『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴のような「読本作家」という原稿を書いて原稿料をもらう人たちが現れてきますが、江戸時代前半までは、原稿を書いても一文にもなりませんでした。

小瀬甫庵という人は、本業は医者なのですが、文才があり、ずっとものを書きたかったらしいのです。それが前田家に雇われたことで、初めて書く余裕ができて『甫庵太閤記』を書くことができたわけです。つまりこの人は前田家には足を向けて寝られないほどの大きな恩がある人だということです。

賤ヶ岳の戦いで勝家は誰のせいで負けたのか。

おそらく、それは誰がどう見ても当時の常識では前田利家のせいで勝家は負けたのだと思います。しかし、前田家に大きな恩がある小瀬甫庵は、藩祖の名誉を傷つけるようなことはできないと思ったのでしょう。

とはいえ、利家の失態を隠すためには、敗因を誰か別の人間のせいにしなければなりません。その犠牲になったのが、佐久間盛政だったのではないでしょうか。佐久間盛政という猪武者が、血気にはやって柴田勝家の言うことを聞かなかったから負けてしまったんだと。

実は、この内容には2つの悪口が含まれているのですが、おわかりでしょうか。

1つは佐久間盛政が猪武者だということ。もう1つは、そんな猪武者を先鋒大将に選んだ上、制御しきれなかったという柴田勝家の管理能力のなさです。つまり『甫庵太閤記』は、勝家は大将として大したことがなかった、だから負けたんだ、と言外に言っているのです。

佐久間盛政や柴田勝家が死んでしまった後なので死人に口なし。一族もほとんど死んでいるので、何を言っても誰からも文句が出る心配はありません。だから、この2人を悪者にして前田利家の敗戦責任を隠してしまったのではないか、と私は思っています。

さらに、これがいまもなお「通説」の座にいる原因にも触れておきたいと思います。

明治以降、いろいろなところから史料が出てきたことで、本来ならもっと利家の責任を問う説が出てきてもよさそうなものなのですが、出てこないのはなぜなのでしょうか。

正確には、多少は出てはいます。たとえば、日本歴史学会の会長も務められた高柳光寿先生も「これは前田利家の裏切りが一番いかんのだ」と言っています。

にもかかわらず、なぜか日本の最高学府である東京大学の教授はそのことについて積極的に認めていないと私は思っています。日本の歴史学の中心は、なんだかんだと言ってもやはり東大です。そのため東大の先生が認めた説でないと通説にならないという傾向があるのです。

ではなぜ東大の先生は、前田利家の敗戦責任を問わないのでしょう。

実は、東大は前田家と深い繫つながりがあるからではないかと私は思っています。

東大のシンボルの1つに「赤門」があります。東大の本郷キャンパスにある朱塗の門です。実はこれは、江戸時代の大名が将軍家の姫をもらったとき、その格式を示すためにつくられた門なのです。つまり、ステータスシンボルです。

その赤門があるということは、東大の敷地は、もともと大名屋敷の跡だったということです。もっと言えば、東大に敷地を提供した大名が、前田家なのです。

しかも前田家というのは、織田、豊臣、徳川と、ずっと家名を守り続けた家柄なので、非常に多くの文字史料を持っています。その中には他には残っていない信長・秀吉時代の貴重な史料も多くあり、まさに歴史資料の宝庫なのです。

こうした背景から、もしかしたらいまだに前田家に遠慮して悪く言えないのかも知れません。でなければ、利家の裏切りを示す同時代史料が残っていないからではないでしょうか。

歴史の多くは勝者がつくるものです。勝者に都合の悪い史料はなかなか残りません。ですので、文字史料ばかりを追いかけていては「真実」はわかりにくいのです。敗者の側から見ることによって、「本当のこと」が見えてくると思います。

※本記事は、井沢元彦著『学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康天下統一の謎』より、その一部を抜粋編集したものです。

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