2018年06月29日 公開
2022年06月07日 更新
現在の賤ヶ岳(滋賀県)
秀吉の計画は、この後もよどみなく続いていきます。
次に狙ねらわれたのは、滝川一益でした。
本能寺の変が起こると、一益は赴任間もない領地で北条軍に攻め込まれ、命からがら旧領の北伊勢に逃げ帰っていました。清洲会議には間に合わなかった一益ですが、この頃までには旧領で着々と失地回復を進めていました。
秀吉にとって、武勇にも知略にも長けた一益の復活は目障りでした。拠点が近畿にあるのも何かと厄介です。そこで、年が明けるとすぐ準備に取りかかり、2月には大軍を率いて亀山方面から北伊勢に侵入し、一益討伐に向かいました。
しかし、これも勝家を巨城・北ノ庄からおびき出す策だったのかも知れません。
なぜなら、それまでの秀吉の所行をはらわたが煮えくりかえる思いで見ていた勝家が、秀吉の滝川一益攻めの報を聞き、「もう我慢の限界」とばかりに残雪を踏みしめて北ノ庄から出陣すると、北伊勢を進んでいた秀吉は直ちに軍を反転させ、勝家軍と対峙しているからです。この素早い転進は、あらかじめ敵の動きを読んでいたとしか思えないほど鮮やかなものです。
こうして勝家軍と秀吉軍は、江北の賤ヶ岳のあたりでにらみ合うこととなりました。
秀吉に苦杯を飲まされていた信孝は、ここで大きな決断をしました。
岐阜城で反秀吉の兵を挙げたのです。
北に柴田勝家、南に滝川一益、そして東から信孝が兵を挙げれば、秀吉の三方を囲むことができると考えたのです。
もちろん秀吉は信孝の母と娘を人質に取っているので、信孝も躊躇はあったと思います。それでも挙兵に踏み切ったのは、秀吉に対する怒りと、まさか主家の先代当主の妻と孫を殺すようなことまではしないだろうという読みがあったからだと思われます。
ところが、秀吉はこの2人を盟約違反として無残にも「磔」という方法で処刑してしまいました。この出来事は、信孝はもちろん、柴田勝家にも大きな衝撃を与えました。
怒り心頭に発した信孝と勝家、そして滝川一益の3人に囲まれた秀吉は、それぞれを個別に撃破しようと思い、まず美濃に進軍します。
ところがこのとき、ちょうど大雨が降って揖斐川という長良川に並行して走る川があるのですが、それが氾濫して美濃に入れなくなってしまいます。そこで同じ美濃の国内である大垣城に入りました。
秀吉が大垣城に入ったという知らせを近江に布陣していた勝家が聞くと、「しめた、それなら秀吉は当分戻ってこれないだろう」と、秀吉側の砦「大岩山砦」を自分の部下の中でも最も勇猛な佐久間盛政に攻撃させました。それが4月19日のことです。
北近江の長浜城の周りには城がないので、秀吉は長浜城を守るかたちで最前線にいくつか砦を築いていました。その一つが大岩山砦です。
大岩山砦は中川清秀という秀吉方の有力武将が守っていましたが、盛政の猛攻に討ち死にし、砦は勝家軍の手に落ちます。続けて盛政は、もう一つ岩崎山に陣取っていた高山右近率いる秀吉軍を蹴散らしました。
ところがこの後、形勢は逆転、勝家軍は敗走を余儀なくされます。
なぜ勝家軍は負けてしまったのでしょう。通説では次のように語られています。
つまり、思ったより速く秀吉軍が来たために、盛政軍は動揺し敗走してしまった、というのです。
確かに、このときの秀吉軍は驚くべき速さで移動しています。史料によると秀吉軍は大垣から木之本までの丘陵地帯を含む52キロメートルをわずか5時間で移動しているのです。
もちろん騎馬武者だけなら充分に可能な時間ですが、戦争は騎馬武者だけでは戦えません。特に秀吉軍は鉄砲中心での編成なので、足軽がいなければ戦いになりません。52キロを徒歩で行くには、早くても10時間はかかるでしょう。しかも行程は山道です。
だから、勝家も盛政もまさかそんなに早く秀吉が戻ってくるとは思っていなかったというのも無理のない話なのですが、油断と言えばこれも一種の油断です。
何しろ秀吉の軍は、あの「中国大返し」をしたばかりです。おそらく、長距離を速やかに移動するノウハウのようなものを持っていたのでしょう。
秀吉軍が大垣を出たのが4月20日の14時とされていますから、木之本に着いたのは19時。すでに陽は落ちていたかも知れませんが、幸いなことに20日ですから空には明るい月が出ていたはずです。月明かりを頼りに盛政軍に忍び寄ることができました。盛政軍の方は、翌日の攻撃に備えて寝ているところを、早朝、不意をつかれたというわけです。
しかし、不意をつかれたわりには盛政軍は激戦をしています。
そう、実は盛政は狼狽して逃げるようなことはしていないのです。
更新:11月22日 00:05