安政5年7月16日(1858年8月24日)、島津斉彬が没しました。薩摩藩第11代藩主で幕末きっての名君。養女の篤姫を13代将軍家定の御台所とし、西郷隆盛を見出したことでも知られます。
島津斉彬が薩摩藩主となったのは嘉永4年(1851)、43歳の時のことです。そして7年後に急死していますので、彼が薩摩藩主として活躍したのは7年間にすぎません。しかし、その足跡は実に大きなものでした。
斉彬の藩主就任が遅かったのは、曽祖父の存在と父親との確執でした。曽祖父の重豪は「蘭癖大名」と呼ばれるほど蘭学を好み、それらに投じる金に糸目をつけず、そのため薩摩藩は500万両もの膨大な借金を抱えてしまいます。自らオランダ語を話し、老いてもなお壮健な重豪を、作家の海音寺潮五郎は「デラックス」という形容が最もふさわしい人と語っています。
そんな重豪が可愛がったのが、曾孫の斉彬でした。重豪は斉彬を連れて、シーボルトと面会したりしています。しかし、重豪に溺愛され、洋学に強い関心を抱く斉彬を危惧したのが、父親の斉興でした。斉彬が藩主になれば、重豪と同じように浪費で財政を破たんさせることを恐れたのです。このため斉興は、なかなか家督を譲りませんでした。40歳を越えても世子のままの斉彬でしたが、しかし洋学への関心から、海外の情勢の変化をいち早く察知することになるのですから、歴史とは面白いものです。
具体的には欧米列強のアジアへの接近と、アヘン戦争における清国の敗北でした。 西洋の科学技術が進歩していることを知る斉彬は、ほどなく日本にも列強が接触してくること、また彼らの艦隊の威力の前には、戦国時代以来の刀や槍では歯が立たないことを悟っています。そして日本に急務であるのは、列強の侵略から国を守るべく、西洋の進んだ文物を取り入れてその長所を学ぶと共に、彼らに伍していくだけの政治体制に変えて、国力をつけていかなくてはならないと考えました。一言でいえば近代国家建設です。いわば明治維新と明治日本の筋道を、斉彬は黒船来航以前に看取していた節があるのです。驚くべき先見性でしょう。 そうした斉彬の見識に接し、薩摩藩主就任を後押ししたのが、幕府老中の阿部正弘でした。
薩摩では家督を巡るお家騒動がおこります。斉興の側室・お由羅の方は、わが子・久光を後継者に据えようと画策すると、斉彬派の家臣はこれを阻止しようとお由羅暗殺に動きます。しかし、その企ては事前に露見し、関係者は切腹や遠島に処せられました。遠島になった者の中には、大久保一蔵(利通)の父親がいます。また切腹した藩士の血染めの衣を見た西郷吉之助(隆盛)は、斉彬の藩主就任を強く望むようになったといいます。しあし、この騒ぎは幕府に伝わります。以前から斉彬の人物を高く評価していた老中・阿部正弘は、これを機に斉興に隠居を促します。そして嘉永4年(1851)、斉彬は43歳にして藩主に就任することになります。
藩主就任後の斉彬の活躍は目覚しく、藩の富国強兵に努め、磯御殿に反射炉や溶鉱炉を備えた近代的工場・集成館を建設、国産初の蒸気船の建造、西洋式軍艦の建造などを手がけました。またアジアを侵略する欧米列強の情報をいち早くつかみ、ペリー来航時の対策も講じています。日の丸を日本船の総船印(後に国旗)にするよう進言したのも斉彬でした。こうした斉彬の見識は、阿部正弘はもちろん、徳川斉昭、松平慶永、伊達宗城、山内容堂ら開明的な藩主にも認められ、斉彬は幕政刷新へと動き出すことになるのです。
斉彬は国難に対処するため、次期将軍は英明な人物を立てる必要があると考えます。そこで徳川斉昭の息子・一橋慶喜を将軍にすることを画策し、その一環として、養女の篤姫を病弱な13代将軍家定の御台所にすることを推し進めます。
その頃、斉彬が下級藩士から抜擢したのが西郷吉之助でした。斉彬は西郷を自分の傍近くに置いて諸侯との連絡役に用いるこ、開明的な人物と積極的に会わせました。このことにより、西郷の器量もまた磨かれていくのです。西郷にとって斉彬は、主君であるとともに、偉大な師でもあったはずです。
斉彬は、日本が陸海軍を整えるだけでなく、近い将来には清国、朝鮮とも協力して、列強に対抗していかなくてはならないというビジョンも示していました。こうしたビジョンが西郷隆盛はもちろん、長崎海軍伝習所時代に面会した勝海舟に多大な影響を与えたであろうことは、容易に想像がつきます。
安政4年(1857)、老中筆頭の阿部正弘が病没すると、翌安政5年、大老に就任した井伊直弼と斉彬は将軍継嗣問題で真っ向から対立します。優れた政治力を持ち、困難に当たれる人物として一橋慶喜を後押しする斉彬に対し、井伊はあくまでも血筋を重んじて、まだ幼い紀州慶福(後の家茂)を推します。斉彬は篤姫を通じて慶喜継嗣を目論みますが、最終的には井伊の強権発動により将軍継嗣は慶福に決定します。
ここで井伊は反対派の弾圧に乗り出します。安政の大獄です。この事態を重く見た斉彬は5000の兵を率いて上洛し、幕府に抗議することを計画しました。しかし炎天下の城下で調練中に倒れ、急死します。享年50。コレラなどによる病死といわれますが、西郷は毒殺と信じていたようです。
「勇断なき人は事を為すあたわず」
斉彬の言葉です。斉彬なくして西郷はなかったでしょうし、もう少し長生きしていれば、幕末の様相も大きく変わっていたかもしれません。
更新:11月21日 00:05