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二代目・島津源蔵~日本のエジソンと呼ばれた明治の発明家

2017年10月03日 公開
2022年06月28日 更新

10月3日 This Day in History

島津源蔵
 

島津源蔵(ニ代目)が没

今日は何の日 昭和26年10月3日

昭和26年(1951)10月3日、島津源蔵(2代目)が没しました。国産初の実用蓄電池を生み、「日本のエジソン」と謳われたことで知られます。

明治38年(1905)5月27日未明、特務艦隊所属の仮装巡洋艦「信濃丸」は、五島列島西方沖を哨戒中、霧の中にバルチック艦隊の灯火を発見。午前4時45分、「タタタタ(敵艦隊見ユ)」の暗号電文を185km離れた鎮海湾で待機する連合艦隊旗艦「三笠」に向けて発信しました。しかし濃霧などの通信条件の悪さから、その電文は東郷平八郎司令長官が座乗する「三笠」には届きません。代わって近くでこれを受信した第三艦隊の巡洋艦「和泉」は同電文を「三笠」に転送し、同時に全速で「信濃丸」のもとに駆けつけ、その後7時間もの間、バルチック艦隊を追走します。「和泉」は濃霧の中、敵艦隊の中に果敢に侵入し、艦隊の構成や陣形、針路を刻々と「三笠」に打電し続けました。この無線通信が、日本海海戦の勝利に大きく貢献したことはいうまでもありません。そしてその通信機の電源に使われていた国産初の実用蓄電池を開発したのが、島津源蔵でした。

島津製作所創業之地源蔵は明治2年(1869)、島津源蔵(初代)の長男・梅次郎として京都に生まれました。梅次郎が6歳の時に父は科学立国を目指して島津製作所を創業、梅次郎も幼い頃から科学知識に興味を持ちます。明治27年(1894)に父が急逝すると、梅次郎は2代目・源蔵を襲名して事業を継承しました。明治30年(1897)、京都帝国大学理工科大学より、島津製作所は蓄電池の製作を依頼され、ペースト式鉛蓄電池を完成して、納入します。さらに源蔵は電池の大容量化を図るべく、クロライド式鉛蓄電池の開発に取り組みました。しかし材料の調達は思うにまかせず、研究は失敗の連続です。そしてようやく150アンペア時の容量を持つクロライド式鉛蓄電池を開発したのは、明治37年(1904)の末、すでに日露戦争が始まっていました。その直後、海軍からの要請を受けて、この蓄電池は巡洋艦「和泉」ほか主要艦船に搭載され、無線通信の電源として約半年後の日本海海戦に間に合い、絶大な役割を果たしたのです。

その後、源蔵は蓄電池の特許を出願し、製品化します。その際、商標としたのが「GS蓄電池」でした。GSとは島津源蔵のイニシャルです。源蔵はその82年の生涯で、残した特許は178件、世界12カ国に及びました。「日本のエジソン」と賞賛された所以です。

日本海海戦の東郷平八郎司令長官や秋山真之参謀の活躍の陰には、それを支えた町の発明家の創意工夫と努力がありました。そして源蔵を発明へと突き動かしたのは、科学立国を目指した父親の遺志を受け継ぎ、世界に伍して生きていこうとする明治人の誇りと気概であったことも、私たちは記憶しておくべきなのかもしれません。

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