2017年07月15日 公開
2019年07月02日 更新
ポトマック河畔の桜並木(ワシントンD.C.)
高峰譲吉が植樹を企画。自らも資金を提供した。
明治34年(1901)7月15日、高峰譲吉がアドレナリンの製法の特許を取得しました。高峰譲吉は消化酵素「タカジアスターゼ」の発見や、止血剤として医学界に貢献した「アドレナリン」の抽出結晶化に成功、「サムライ化学者」とも呼ばれています。
嘉永7年(1854)、越中国高岡の加賀藩御典医(漢方医)の家に生まれた譲吉は、幼少の頃より科学と外国語への関心を見せました。12歳の慶応元年(1865)には藩の留学生に選ばれて長崎に学び、さらに維新後の明治2年(1869)には大阪医学校、大阪舎密学校、さらには工部大学校(後の東京大学工学部)に学んで、工部大学校応用化学科を首席で卒業します。
明治13年(1880)、26歳の時にイギリスに留学して応用化学を研鑽。3年後に帰国すると、農商務省に勤務して、欧米の先進的な化学工業を日本においても確立することを目指します。明治17年(1884)、30歳の時にアメリカのニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで目にしたリン鉱石から人造肥料生産のヒントを得ました。またアメリカでキャロライン・ヒッチと知り合って、後に結婚します。帰国後、専売特許局局長代理となり、局長高橋是清の欧米視察の留守を預かり、特許制度の整備に尽力しました。この時期に特許制度に関わったことも、譲吉の人生に大きな意味を持ちます。
明治19年(1886)、32歳で東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立。日本の肥料工業の先駆けでした。会社経営が順調に進む中、アメリカの酒造会社から「高峰式元麹改良法」を採用したいという連絡が入ります。これは日本の麹菌によるアルコール醸造法をウイスキー製造に応用する技術で、かねてより譲吉がアメリカで特許出願中のものでした。譲吉は明治23年(1890)、渡米を決意。しかし譲吉を待っていたのは、新しい醸造法を快く思わない者たちによる妨害と暗殺未遂でした。
譲吉が建設していた研究所は放火され、全焼します。 ところが、「禍福はあざなえる縄の如し」とはよくいったもので、醸造発酵技術の開発過程で、譲吉は明治27年(1894)、デンプンを分解するジアステーゼを植物から抽出することに成功、「タカジアスターゼ」という強力な消化酵素を発明しました。「タカジアスターゼ」は医薬品化され、消化薬として世界的に知られることになります。 また譲吉が当時暮らしていたシカゴには多数の食肉処理場がありましたが、そこで廃棄される家畜の内臓を用いてアドレナリン抽出の研究を始め、明治33年(1900)、ついに牛の副腎から結晶抽出に成功します。この「アドレナリン」は止血剤としてあらゆる手術に用いられることになり、医学の進歩に大きく貢献しました。この二つの功績によって、譲吉はアメリカで「バイオテクノロジーの父」とも呼ばれています。
譲吉は「タカジアスターゼ」「アドレナリン」の特許を取得し、巨万の富を得ますが、それを私するのではなく、世界に後れを取らない日本人研究者育成のための「理化学研究所」の創設にあて、また三共製薬の初代社長に就任。さらに日露戦争時には私費を投じて、アメリカ各地で講演を行ない、米国の世論を日本の味方にすべく尽力しました。ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木の植樹を企画したのも譲吉で、自ら資金を提供しています。
大正11年(1922)、没。享年68。研究者、事業者、民間外交の3役を果たした、スケールの大きな明治人はこう語っています。
「発明研究は、学理に基礎を置いて、しかしてそれが経済上に利あるものでなければならない」
更新:11月24日 00:05