2017年05月01日 公開
2023年03月31日 更新
5月1日は、日本赤十字社の創立記念日でもあります。明治10年(1877)のこの日、佐野常民らが西南戦争の負傷者の救護のため、博愛社を設立しました。この博愛社が日本赤十字社の前身です。「日本赤十字の父」といわれる佐野ですが、その活動の背景には、若き日の経験も少なからず影響していそうです。
文政5年(1823)、佐賀藩士の五男に生まれた佐野は、藩医である佐野常徴の養子となります。そして佐賀藩校・弘道館を経て、医学を学ぶべく江戸、大阪、京都に遊学します。佐野は各地の遊学先で、名だたる私塾で学びました。嘉永元年(1848)には緒方洪庵が開いた大坂の適塾に入り(大村益次郎と意気投合したといいます)、ほどなくして華岡青洲が開いた紀伊の春林軒塾、江戸で伊東玄朴が開く象先堂塾にも入門しています。
特に、適塾での経験は大きかったのではないでしょうか。「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない」。緒方洪庵の言葉です。こうして医学の道に進む者の心構えを、佐野は緒方から直に学んだことでしょう。
少し話が逸れますが、佐野は非常に進歩的で、かつスケールの大きな人物だったようです。安政2年(1855)6月、故郷に帰っていた佐野は、長崎の海軍予備伝習に参加しており、同年8月に幕府が長崎海軍伝習所を開設すると第一期生に就きました。 また、佐野は時を同じくして、藩主・鍋島直正へ海軍創設の必要性を説いているといいます。医学のみならず、日本の行く末にも真摯に向き合っていた姿が窺えます。その意味では、幕末の典型的な若者の一人とも言えるでしょう。
さて、佐野にとっての転機となったのが、慶応3年(1867)に派遣されたパリ万博でした。この時、佐野は国際赤十字社の組織と活動を見聞します。こうして、佐野は海外の先進的な医療技術を目の当たりにし、同時に「博愛」を基本とする西洋の医療精神を学んだのです。帰国後は、明治新政府で兵部少丞に就任して海軍の基礎創りに尽力、また日本初の博覧会を東京の湯島聖堂で開くなど近代化を推し進めていきました。
西南戦争が起きたのは、そんな折でした。互いに傷つけあう日本人たちを目の当たりにした佐野は、「人命第一」を訴えた師・緒方の教えや、「博愛」を唱える赤十字社の姿が脳裏に浮かんだことでしょう。 かくして佐野は、傷病兵を分け隔てなく救済すべく「博愛社」を設立。敵味方の区別なく、西南戦争の戦場で負傷した将兵の看護にあたったのです。
その後、明治20年(1887)に博愛社は日本赤十字社と名称を変更。佐野は初代日本赤十字社社長となり、磐梯山噴火の救援活動や日清戦争、義和団の乱、そして日露戦争で戦時救護活動を行なっていくのです。また「ポーランド孤児救出」でも、日本赤十字社は大きな役割を果たしています。
「日本赤十字の父」というと、どうしても堅苦しいイメージを抱きがちです。しかし、佐野は幕末に様々な地に赴き、その身で色々なことを学び、その経験をもとに「自分は何をすべきか」を考え、体現した「躍動感」ある人物です。海軍方面でも奔走している姿を見ると、活動の幅広さに驚かされます。こうした人物が各分野にいればこそ、日本は近代国家の礎を築き、今に至るのでしょう。
更新:11月24日 00:05