2017年04月21日 公開
2019年03月27日 更新
明治18年(1885)4月21日、浜口梧陵が没しました。醤油醸造の浜口儀兵衛家(現在のヤマサ醤油)の7代目当主で、「稲むらの火」のモデルとしても知られます。
梧陵は文政3年(1820)、紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)の醤油商人・浜口七右衛門の長男に生まれました。名は成則。号は梧陵。 父の七右衛門は浜口儀兵衛家の分家で、梧陵は12歳の時に本家の養子となって、下総国銚子に移ります。嘉永6年(1853)、34歳の梧陵は家督を継いで7代目浜口儀兵衛となりました。その少し前に梧陵は紀州に戻り、「耐久舎」(現在の和歌山県立耐久高等学校)を設立して、後進の教育にも力を入れています。
安政元年(1854)11月4日と5日、2度にわたって紀州を安政南海地震が襲いました。この時、故郷の広村にいた梧陵は、海水のひき方や井戸水が急激に減少したことから、すぐに大津波が来ることを予測します。夜のことでもあり、梧陵は村人を高台にある広八幡神社に避難させるために、自分の田に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火をつけ、避難路を示す明かりとしました。 そして急いで避難勧告を行ないます。この梧陵の判断により、直後に襲ってきた大津波から9割以上の村人の命が救われました。自らの危険も財産も顧みずに村人を救った梧陵の行動に、感動した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、「仏の畠の中の落穂」という短篇の中で「A Living God(生ける神)」として梧陵を海外に紹介しています。さらにこの話をもとに、小学校教師・中井常蔵が著わした物語「稲むらの火」が、小学国語読本に採用されました。なお「稲むらの火」では梧陵は五兵衛という名になっています。
梧陵は人命救助のみに留まらず、壊滅的被害を受けた広村の村民のために、救援家屋の建設や農漁具の調達を行ない、村人の離村を防ぎました。 そして同じような惨禍が今後起こらぬようにと、巨額の私財を投じて幅20m、高さ5m、長さ600mにも及ぶ堤防を4年間かけて築くのです。堤防は海側に松、陸側に櫨(はぜ)の木を植えて堅牢なつくりにし、この堤防が昭和21年(1946)に起きた昭和南海地震による津波被害を見事に防ぎました。堤防は今も残っています。
安政3年(1856)、銚子に戻っていた梧陵は一人の蘭方医と出会い、彼を支援します。それが佐倉順天堂で西洋医術を学び、銚子に移ってきた関寛斎でした。 梧陵は「これからの我が国には西洋医学が不可欠」と考え、その普及を考えていました。折しも安政5年(1858)、コレラが流行し始めると、梧陵は寛斎に江戸の三宅艮斎や伊東玄朴を紹介します。三宅や伊東は西洋種痘所に籍を置く、日本有数の蘭方医でした。彼らから最先端の医術を学んだ寛斎は、銚子に戻るとコレラの予防法を積極的に広め、これによってコレラの大流行を未然に防ぐことができたといいます。いわば梧陵の先見性が、銚子の人々の命を救ったのです。さらに同年冬、火災で再興不能に陥った西洋種痘所を救ったのも梧陵でした。報せを受けた梧陵は、すぐに再建費用を援助することにし、新築費として300両、図書や備品の購入費として400両を寄付するのです。
これによって万延元年(1860)、西洋種痘所は再建され、後に「西洋医学所」と名を変えて、東京大学医学部の前身となりました。 一方、紀州において梧陵は、国防のために農兵隊を組織しました。文久3年(1863)に大和で天誅組が挙兵すると、その鎮圧を紀州藩から要請されますが、梧陵は即座に断っています。 「この兵は外国から地域を守るためのものであり、日本人同士で争うなど、もってのほかである」というのが理由でした。梧陵の精神がここにもよく表われています。
そんな梧陵を周囲も放ってはおかず、紀州藩の勘定奉行を務めた他、維新後は和歌山県大参事や初代県議会議長を務め、中央政府からも招かれて、初代駅逓頭(郵政大臣に相当)として、郵便制度の創設にもあたりました。 また三宅艮斎、佐久間象山、勝海舟、福沢諭吉らとも交流があり、福沢は梧陵を「博識の人なり」と評し、また勝海舟は梧陵の死後、碑文を書いています。
明治17年(1884)、念願の海外渡航に赴いた梧陵は、翌年、ニューヨークで病の床につき、帰らぬ人となりました。享年65。その生涯は「世のために尽くす」という思いで貫かれていたといっていいでしょう。
更新:11月22日 00:05