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若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(前編)

2016年02月26日 公開
2023年10月04日 更新

植松三十里(作家)

幕末、17歳にして佐賀藩主に就いた直正は、投錨中だった長崎のオランダ船に自ら乗り、衝撃を受ける。その肌で、日本と西洋列強との軍事技術の差の大きさを感じたのだ。そして若き藩士たちとともに、近代化に向けたプロジェクトに挑んでゆくのであったが…。

 


大砲鋳造の図。直正のもと、嘉永3年(1850)から建設された築地反射炉の様子を描いている。築地反射炉は薩摩や韮山に先駆けた日本初の洋式反射炉であった(公益財団法人鍋島報效会蔵)

 

若き藩主の改革と決意

 鍋島直正は江戸藩邸の生まれ育ちで、17歳の時に藩主の座につき、初めてのお国入りとして佐賀に向かうことになった。ところが大名行列の出発に際し、醤油屋や酒屋などが売掛金の支払いを求めて藩邸に押しかけ、出発を延期しなければならなくなった。

 佐賀藩邸は現在の日比谷公園の一角で、周囲はそうそうたる大名屋敷。出発の遅れは、すぐに噂になっただろうし、直正は初のお国入りという晴れがましい出だしから、屈辱を味わわされてしまった。

 それでも佐賀に着くと、すぐに長崎の視察に出た。これを進言したのは儒学者の古賀穀堂だろう。儒学者というと守旧派のイメージがあるが、長年、長崎警備を務めてきた佐賀藩の学者だけに、特に西洋事情に通じていた。

 古賀は、直正が6歳の時から御側頭を務め、翌年からは学問を教えた。直正はフェートン号事件の6年後に誕生しており、対外的な危機感や佐賀藩の責任を教えこんだのも穀堂だ。

 直正は長崎に赴くと、投錨中だったオランダ船に乗せてもらい、西洋との軍事技術の差を実感する。毎年、来航していたオランダ船は商船ではあるものの、海賊対策として大砲を装備していたし、船体の大きさが和船とは格段に違った。

 一方、佐賀藩が守るべき湾口の台場は、旧式な小型青銅砲が置かれているのみ。もしも、再びフェートン号のような無法な異国船が来航したら、防ぎようがなかった。

 なんとしても充分な備えが必要だったが、江戸藩邸の売掛金にも困るほど、藩は膨大な借金を抱えており、先立つものがない。そのために、直正はまず財政改革を目指した。しかし父の代からの重臣たちが反対勢力になり、倹約策程度しか実現できなかった。

 天保4年(1833)、直正が22歳の時に、佐賀城の二の丸が火事で全焼。藩庁として使っていた建物だけに、もはや政務を執る場所もない状態に至った。だが、ここまで来たら誰も文句は言うなとばかりに、直正は改革実行に転じた。

 古賀穀堂の助言を得て制度を見直し、思い切って人員を整理する一方で、幕府から2万両を借り受けた。主家からの借金は、江戸や大坂の豪商たちから借りるよりも、はるかに低利だった。直正の正妻は将軍家の姫であり、その縁を頼ったのだろう。

 その後、直正は、オランダ陸軍少将のヒュゲニンが著した『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』という蘭書を手に入れた。鉄製大型砲の鋳造方法を解説した書物だ。反射炉の図面も載っており、これを佐賀で造ろうと決意する。

 

プロジェクトチーム、発足

 ただし、プロジェクトをスタートさせるまでには、なお10数年の歳月が必要だった。その間、教育に力を入れて人材育成に務め、見どころのある若者は、積極的に江戸や長崎に留学させた。

 また天保8年(1837)には、松江の松平家に妹の光姫を嫁がせた。松江藩内の奥出雲は、日本有数の鉄の産地だった。それまで藩主の姉妹や娘たちは、重臣に嫁ぐことが多かったが、大量の鉄材を融通してもらう布石だったのだろう。

 天保11年(1840)になると、中国で阿片戦争が勃発。長年にわたって、さまざまな技術や文化の手本となってきた中国が、イギリスに敗北したことは衝撃だった。

 その影響で長崎の町年寄、高島秋帆が新流派を築いた西洋砲術が、幕府に採用された。しかし翌年には秋帆は弾圧を受けて失脚。西洋式への抵抗は大きく、武術や技術の改革は慎重に進めなければならなかった。

 藩内では次第に人材育成の成果が現われ、杉谷雍助という若い蘭学者が、ヒュゲニンの書を和訳するに至った。ただ何分にも専門書で、まして日本人が未経験の分野だけに、わからない部分が多かったことだろう。江戸や長崎の蘭学者に意見を聞き合わせるなどして、杉谷は正確を期した。 また直正の側近だった本島藤太夫は砲術を修め、新型青銅砲の鋳造技術も身につけた。

 さらに直正は、城下の鋳物師や刀鍛冶など優れた職人を用いて、嘉永年(1850)、大銃製造方というプロジェクトチームを正式に発足させた。当初のメンバーは8人で、反射炉建設に着手。場所は築地といって、佐賀城下の職人町の裏手だった。

 プロジェクト開始に際しては、ふたたび幕府から10万両を借りた。火事の際の2万両が前例になったのは疑いない。また幕府の老中たちは、海防に大改革が必要なことは心得ていた。だが幕府は組織が大きすぎて、思い切った新事業には動き出せなかった。そのため資金は出すから、長崎の海防は佐賀藩に任せるという姿勢を取った。佐賀藩の技術が最先端であることを、幕府はよく理解していたのだ。

 

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