2018年06月27日 公開
2018年06月27日 更新
『歴史街道』2014年3月号、総力特集《シベリアからの奇跡の救出劇 ポーランド孤児を救え!》より
「ポーランド」といわれて、皆さんは何を思い浮かべられるでしょうか。多くの日本人がまず思い浮かべるのは、ピアノの詩人と呼ばれる作曲家、フレデリック・ショパンの美しい調べかもしれません。キュリー夫人やコペルニクスを思い起こす方もいらっしゃるでしょう。しかし、その他のイメージはといえば、チェコやスロバキア、ハンガリーなどの東欧諸国と重なってしまうかもしれません。
ところが、ポーランドを訪れてこの国を知れば知るほど、この国の人々の日本への好意が、他の国とは違うものであることを随所で実感し、思わず胸打たれることになるはずです。
私は、昭和36年(1961)に外務省に入省。平成2年(1990)に欧亜局長に任じられた後、平成5年(1993)から4年間ポーランド大使を務めました。それまでも様々な国々での仕事を経験していましたが、私にとってポーランドは「特別な国」となりました。その理由をひと言でいえば、やはり、ポーランドの人々が日本に寄せてくださっている熱い想いに間近に接したから、ということに尽きます。
なぜポーランドの人々は、それほどまでに日本に好意を抱いてくれるのか。その背景には「歴史」があります。
地図を見ればわかりますが、ポーランドは、ロシア、ドイツ(プロイセン)、オーストリアというヨーロッパの強国に囲まれた国です。1772年、1793年、1795年には、これらの国々の勢力争いの中でポーランドは分割され、遂には国家自体が消滅する事態に立ち至ってしまいます(ちなみにポーランドが独立を回復したのは第一次世界大戦後の1918年のことです)。このような屈従の歴史に虐げられてきたポーランド人にとって、自らを支配するロシアを極東の小国・日本が打ち破ったことは、あまりに衝撃的な出来事でした。
そしてもう1つ、ポーランド人の心を揺さぶる大きな出来事がありました。それが、ロシア革命後の混乱の中、シベリアの地で苦境に陥っていたポーランド人の孤児たち765人を、大正9年(1920)と、大正11年(1922)の2回にわたって日本が救出したことです。
なぜ、シベリアにポーランド人がいたのか不思議に思われる方も多いでしょう。実は、領土分割で国家を喪失して以来、ロシア領となった地域で独立のために立ち上がった志士たちやその家族が、シベリアに流刑にされていたのです。第一次世界大戦までにその数は5万人余りに上ったといわれます。さらに第一次世界大戦ではポーランドはドイツ軍とロシア軍が戦う戦場となり、両軍に追い立てられて流民となった人々がシベリアに流れ込んでいきました。そのためシベリアにいるポーランド人の数は15万人から20万人にまで膨れあがっていたのです。
そこに起きたのがロシア革命、さらにその後の内戦でした。この戦火の中で、シベリアのポーランド人たちは、凄惨な生き地獄に追い込まれます。食料も医薬品もない中で、多くの人々がシベリアの荒野を彷徨い、餓死、病死、凍死に見舞われていきました。食べ物を先に子供たちに食べさせていた母親が遂に力尽き、その胸にすがって涙を流しながら死にゆく子供たち…。そんな光景があちらこちらで見られたといいます。
せめて親を失った孤児だけでも救わねば――1919年には、あまりに悲劇的な状況を見るに見かねたウラジオストク在住のポーランド人たちが立ち上がり、「ポーランド救済委員会」を設立します。
当時、シベリアにはアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、そして日本が出兵していました。ポーランド救済委員会は、まずアメリカをはじめ欧米諸国に働きかけ、ポーランド孤児たちの窮状を救ってくれるよう懇願しますが、その試みはことごとく失敗してしまいます。最後の頼みの綱として彼らがすがったのが日本でした。
当時の日本政府は救出要請の訴えを聞き、わずか17日後には救いの手を差し伸べる決断を下しました。大変な費用と手間が必要であったにもかかわらず、これは驚くべき即断といえます。日本人は、シベリアのポーランド人たちの惨状を見るに見かねたのでしょう。
救済活動の中心を担ったのは日本赤十字社でした。シベリア出兵中の日本陸軍の支援も受けて、早くも大正9年7月下旬には孤児たちの第一陣が敦賀経由で東京に到着します。それから翌年にかけての第1回救済事業では、375人の児童が東京へ運ばれ、大正11年の第2回救済事業では、390名の孤児たちが大阪に運ばれています。
シベリアで死の淵を彷徨ってきた孤児たちは栄養失調で身体も弱り、腸チフスなどの病気が猛威を振るうこともありました。大正10年7月11日には、孤児たちを必死に看護していた看護婦の松沢フミさんが腸チフスに感染して殉職しています(享年23)。孤児たちも彼女の死を悼み、涙に暮れたといいます。
そんな不憫な孤児たちに同情し、日本では朝野を挙げて温かく迎え、世話をしました。東京でも大阪でも慰問品や寄贈金が次々と寄せられ、慰安会も何度も行なわれました。
このような献身的な看護や、温かいもてなしの甲斐あって、来日当初は飢えて体力も衰えていた孤児たちは、みるみるうちに元気を取り戻し、全員が無事、ポーランドに帰国していきました。
横浜港や神戸港から出航する時、幼い孤児たちは親身に世話をしてくれた日本人の看護婦や保母たちとの別れを悲しみ、乗船を泣いて嫌がるほどでした。苦難に満ちたシベリアでの生活を過ごした孤児たちにとって、これほどまでに温かく親切にされたのは、物心ついてから初めてということも多かったのでしょう。彼らは口々に「アリガト」など、覚えたての日本語を連発し、「君が代」などを歌って感謝の気持ちを表わします。帰る子供たちも、大勢の見送りの日本人たちも、涙を流しながら、姿が見えなくなるまで手を握り続けたのでした。
更新:12月04日 00:05