2018年06月27日 公開
2018年06月27日 更新
私がこの話を知ったのは、ポーランド大使としてワルシャワに住むようになってからのことです。ポーランド在住の松本照男さんにこの話をうかがったことがきっかけでした。松本さんはこの件をワルシャワ大学のタイス博士と共に調査され、元孤児の方々とも交流されていたのです。私は、元孤児の方々を、ぜひ大使公邸にお招きしたいと考えました。そう松本さんに相談すると、松本さんは連絡役をご快諾くださいました。
平成7年(1995)10月、8名の元孤児の方々が公邸にいらっしゃいました。その当時でも皆さん80歳以上のご高齢です。家族の付き添いでようやくお越しになれたご婦人もいらっしゃいました。
彼らを迎えて、私はこのような挨拶をしました。
「ようこそお越しくださいました。国際法という法律では、日本大使館と大使公邸は小さな日本の領土とも考えてよい場所です。ここに皆さんをお迎えできたことを、本当に嬉しく思います」
すると、皆さん「ああ、私たちは日本の領土に戻ったんだ」と本当に感激されて、その場所に跪いて泣き崩れられたのです。そして、やっとのことで公邸にいらっしゃったご婦人が、こうおっしゃいました。
「私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼をいいたかった。しかし、もうそれは叶えられません。ですから大使から公邸にお招きいただいたと聞いた時、這ってでもうかがいたいと思いました。しかも、この地が小さな日本の領土だと聞きました。今日、日本の方に、この場所で私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう死んでも思い残すことはありません」
実は孤児の皆さんは、ポーランドに帰国後に「極東青年会」という団体を組織し、第二次世界大戦前のポーランドで日本の素晴らしさを紹介する活動を行なうと共に、日本に行くための資金を積み立ててもいらっしゃいました。しかし世界大戦の戦乱と、東西冷戦が彼らの夢を断ち切ってしまったのです。
皆さんの長年の想いが真っ直ぐに伝わってきて、私も涙があふれるのをこらえることができませんでした。今でも思い出すだけで涙が出てきます。
その後、元孤児の方々にささやかな日本食を楽しんでいただき、楽しい時間を過ごしましたが、皆さん驚くほど鮮明に日本の印象を覚えていらっしゃいました。
真夏に汽車に乗ると、大人の男性が車内に入るやすぐにズボンを脱ぎだしてステテコ姿やふんどし姿になったことに驚いたこと。生まれて初めて動物園に連れて行ってもらって、嬉しかったこと。男の子がたらいで行水しているのを覗き見したこと。支給された浴衣の袖の中に飴やお菓子をたっぷり入れてもらって大喜びしたこと。帰国のために日本から乗船した船で、日本人船長が毎晩巡回して、毛布を首まで掛けてくれたこと。お腹いっぱいに食事を食べることができた感激。多くの日本人から、親のような温かな思いやりを受けた喜び…。
元孤児の皆さんは身振り手振りを交えてエピソードを語り、爆笑の渦が巻き起こることもしばしば。彼らが初めて眼にした日本という異国の風俗への驚き、そして嬉しかった思い出が、生き生きと甦りました。同時に、当時の日本人たちの優しい眼差しや姿も、眼前に立ち現われるような感慨にとらわれました。
「一生大事に持ち続けてきた宝物を、今日は大使に差し上げたいのです」
そういって、1人のご婦人が分厚い封筒を取り出されました。それは、当時の日本の庶民生活のスナップや京都や奈良など名所旧跡を写した風景写真コレクションでした。彼女はそれを戦争の最中も、ひと時も肌身離さず持っていたのだといいます。
「宝物なら、私も持っています」。あるご婦人は、見知らぬ日本人から貰った扇子を、またあるご婦人は、離日時に日本人から贈られた布地の帽子を大事に持参してくださっていました。
「私は、このおかげで長生きできたのですよ」。そういって見せてくださったのは、大阪カトリック司教団から孤児たちに贈られた聖母マリア像のカードでした。長い年月を掛て紙はポロポロになっていましたが、裏面には日本語の祈祷文が、かろうじて消えずに残っていました。
人間の心に響くものは、人の心と心との触れ合いであり、そして、そこから生まれる感動です。シベリアから救出されたポーランドの孤児の方々と、彼らを助けた数十年前の日本人たちとの心の触れ合いから生まれた感動が、私の胸に響いてやみませんでした。
平成7年と8年には、ポーランド側が阪神淡路大震災の被災児童を招待してくださいました。その時にも、4名の元孤児の皆さんがお越しくださり、被災児童たちと対面して温かな言葉をかけてくださいました。
兄弟で日本に助けられたある方は、その弟さんを2日前に亡くしたばかりでした。しかし、「私と弟がかつて日本人からもらった温かな心を、今、被災して悲しんでいる日本の子供たちに伝えたい」と駆けつけてくださり、そして噛んで含めるように、ご自分が体験された日本人からの親切や好意を、日本の児童たちに語ってくれました。
最後に、元孤児の皆さんから被災児童にバラの花が1輪ずつ手渡され、集まった人々から万雷の拍手が沸き起こりました。その時、元孤児の皆さんの目には涙が光っていました。彼らはこのようにして、75年前の日本人の善意を、日本の子供たちに返してくださったのです。
元孤児の方々は、残念ながら皆さんお亡くなりになりました。思えば、現在、ポーランドにおいて日本に好意を抱く方々が多いのも、シベリアからの孤児救出に恩義を感じてくださり、さらに元孤児の皆さんが戦前に「極東青年会」で、日本の素晴らしさを紹介してくださったおかげでもあります。大きな役割を果たされた皆さんに、ただただ心からの感謝を捧げたいと思います。
そして、彼らの温かな心に触れた1人として、私はぜひとも、日本人とポーランド人が育んできたこの素晴らしい物語を、多くの日本の皆さんにお伝えしたい。戦前の日本といえば、悪いイメージしか持たない人もいらっしゃるかもしれません。しかし、それではあまりに一面的です。われわれ日本人の素晴らしい面を十分に発揮した事例があり、ポーランドの方々も、その恩義を大切にしてくださっている。遠く離れた日本とポーランドの間で、「善き心」が今現在に至るまで響きあっていることを、ぜひ知っていただきたいと思うのです。
更新:12月04日 00:05