2017年09月15日 公開
2018年08月28日 更新
嘉永2年9月15日(1849年10月30日)、高木兼寛が生まれました。海軍軍医総監で脚気の撲滅に努め、「ビタミンの父」として知られます。
兼寛は嘉永2年、薩摩藩郷士・高木喜助の長男として、日向国諸県(もろかた)郡穆佐(ぼくさ)郷に生まれました。通称は藤四郎。幼い頃から学問を好み、7歳頃から四書五経を学び始めるとともに、9歳頃から剣術の稽古も始めて、体格もたくましいものとなります。当時、地元の穆佐村に黒木了輔という医者がおり、貧富の別なく人々の面倒をみて、村の人々から感謝されていました。兼寛も黒木の姿を見て、自分も人々のために尽くす医者になりたいという思いを抱きます。
18歳の時、その念願がかなって、薩摩藩の蘭方医・石神良策に師事しました。やがて戊辰戦争が始まると、兼寛は軍医として従軍します。 明治2年(1869)、21歳の時に開成所洋学局に入学。翌年には薩摩藩によって設立された鹿児島医学校に入学しますが、校長のウィリアム・ウィリスに能力を認められて教授に任じられるとともに、イギリス留学を勧められます。
明治5年(1872)、海軍軍医寮の幹部になっていた師の石神良策の推挙で海軍に入った兼寛は、海軍軍医アンダーソンに認められ、明治8年(1875)、彼の母校であるイギリスのセント・トーマス病院医学校に留学しました。当時のイギリスでは、実践的な「病院医学」を重んじ、貧しい病人を救う医者を養成することに重きを置いていました。当時のドイツなどの「研究室医学」とは一線を画するものであり、その姿勢は兼寛に大きな影響を与えます。また、セント・トーマス病院医学校は、ナイチンゲール看護学校を擁しており、看護婦養成に献身的な努力を傾けるナイチンゲールの姿も、兼寛に深い印象を刻みました。
在学中、最優秀学生の表彰を受けた兼寛は、英国外科医、内科医、産科医の資格と、英国医学校の外科学教授の資格を取得し、明治13年(1880)、32歳で帰国します。以後、海軍病院長をはじめ、海軍医療の中枢を歩みますが、彼の功績として特筆すべきは、脚気への取り組みです。
明治の海軍では、軍艦乗組員の脚気患者の蔓延が深刻な問題となっていました。一方、イギリス海軍ではそうした現象は見られず、兼寛は食事に問題があるのではないかと考えます。日本海軍の主食は米であり、おかずは粗末です。一方、イギリス海軍ではパンと肉です。兼寛は「炭水化物ばかりを摂取して、たんぱく質が不足することが脚気につながるのでは」と考えました。当時、脚気は空気中のウイルスによって感染すると考えられており、兼寛の主張は海軍以外では顧みられません。兼寛は海軍食にパンと肉を取り入れてメニューの改善を行なった上で、実験航海を行ないました。 その結果、航海中に脚気患者は現われず、兼寛は「病者一人もなし、安心あれ」と電文を打ったことが知られています。その後、脚気は兼寛の注目したたんぱく質不足ではなく、ビタミン不足から生じることが判明しますが、そのきっかけを作ったのは食事に着目した兼寛であり、そこからビタミンが発見されたことを受けて、兼寛は「ビタミンの父」と称されました。
兼寛は、研究のための医学ではなく、目の前の患者を救うことのできる医者を養成し、また病気に苦しむ人を救済する施設を作りたいと考えます。そして明治15年(1882)、貧しい患者の施療病院として有志共立東京病院を設立。また元海軍卿・勝海舟から資金援助を受けて、愛宕山下の東京府立病院を改修。明治20年(1887)に昭憲皇太后を総裁に迎えて、東京慈恵医院と改称して、兼寛が院長となりました。さらに留学中に目にしたナイチンゲールの活動から、看護婦の育成教育にも尽力。陸軍卿・大山巌夫人の大山捨松ら「婦人慈善会」の後援を得て、日本初の看護学校・有志共立東京病院看護婦教育所を設立しています。
兼寛はこんな言葉を残しています。「病気を診ずして、病人を診よ」。 その意味は、「他人をいとおしむ心というものは、精神的に自立した人間でなければ、十分に成熟しない。医師が相対するのは『意識』を持った病める人間である。医師たる者は、病人の痛みがわかる、温かい心の持ち主でなければならない」というものです。現代にも通じる医師のなすべき使命、医者の心のあり方を示した兼寛は、大正9年(1920)に世を去りました。享年72。
更新:11月23日 00:05