2017年08月03日 公開
2023年04月17日 更新
明治12年(1879)8月3日、岩崎小弥太が生まれました。三菱財閥の4代目総帥として知られます。相撲取りを投げ飛ばしたという逸話があるほど、岩崎小弥太は堂々たる体格でした。
一番多かった時の体重は124kgに及んだといわれます。小弥太は明治12年、岩崎弥太郎の弟・弥之助の嫡男に生まれました。母親は元土佐藩参政・後藤象二郎の娘です。東京帝国大学法科大学に合格したもののイギリスに留学、ケンブリッジ大学で歴史学を学びました。明治39年(1906)、27歳の時に帰国。小弥太は三菱合資会社に副社長として入社することを、父親から命ぜられます。小弥太は最初、その命令を拒み、重ねて弥之助から厳命を受けると、条件を出しました。それは「名義だけの副社長ではなく、実際に存分に才腕を振るわせてほしい」というものです。弥之助はこれを快諾しました。
大正5年(1916)、3代目総帥・岩崎久弥(弥太郎の息子で小弥太の従兄)が52歳の若さで、38歳の小弥太に社長職を譲って引退。弥太郎家と弥之助家が交代で三菱のトップを務めることは暗黙の了解のようになっていたようです。小弥太は大いにリーダーシップを発揮しますが、その矢先に悲劇に見舞われます。大正6年(1917)、大阪北区の三菱の倉庫が大爆発を起こし、43人が犠牲となり、負傷者は数百人、周辺の家屋にも甚大な被害を出したのでした。この時、小弥太は即座に大阪に駆けつけて、自ら入院患者を見舞うとともに、大阪市に対して100万円(現在の約30億円)の見舞金を寄付します。この素早い対応によって、事態は穏便に済まされ、緊急事態を乗り切りました。
小弥太が三菱を引き継いだ時、会社は社員が約4500人、事業所が45ヵ所という大所帯でしたが、小弥太は「すでに三菱の事業を岩崎家の私的家業とするには限界であり、公的な性格を有する組織である以上、国利民福のために活動すべき」と考えます。そして各事業を株式会社として次々に独立させ、三菱本社はその頂点に立って、三菱は財閥と呼ばれていくことになります。小弥太は三菱財閥を公共化させたいと考えていました。そして小弥太のリーダーシップのもと、金融恐慌・昭和恐慌の危機を乗り切り、時に巨大な組織になった余り、庶民や軍部の憎しみを受けることもありましたが、日中戦争、太平洋戦争では国家に協力して、事業を拡大していきます。 戦中、三菱が零式艦上戦闘機や戦艦武蔵を造り、またロケットエンジンの開発に当たっていたことは、よく知られているでしょう。
その一方で、太平洋戦争が始まると、小弥太は「英米人は三菱の昔からの友である。戦争中だとはいえ、彼らの権益と資産には保護を加え、戦争が終わったら、再びパートナーとして、世界の平和と人類の福祉のために力を尽くしたい」と社員に説きました。戦争一辺倒の時代の中で、これだけのことを口にするのは、相当な勇気を要したはずです。どんな状況下でも理性的な判断を失わない、小弥太の人間性が見えてくるでしょう。
しかし、昭和20年(1945)の敗戦を迎えると、GHQは財閥解体を日本政府に迫り、三菱も終戦連絡事務局総裁児玉謙次や、大蔵大臣・渋沢敬三より、三菱本体の自発的解体を要望されました。これに対して小弥太は「自発的な」解体を拒絶します。
「三菱は国家社会に対する不信行為はいまだかつて為した覚えはなく、また軍部官僚と結んで戦争を挑発したこともない。国策の命ずるところに従い、国民として為すべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何物もない」
それが、小弥太の言い分でした。
小弥太の三菱をよそに、他の三井・住友・安田の各財閥は自発的解体を了解し、三菱は不利になる形勢となります。しかし小弥太はあくまで、自発的解体を拒絶し、もし三菱を潰すのであれば、国家の命令によって潰してくれと主張しました。小弥太の事業に対する信念、矜持が感じられます。
ところが直後に小弥太は倒れてしまいます。あるいは極度の重圧が体を蝕んだのかもしれません。腹部大動脈瘤、下大静脈血栓でした。昭和20年12月2日、小弥太没。享年67。
小弥太が反対し続けた自発的解体はもはや抗し難く、10月31日に重役たちの判断で了承、翌年9月30日の株主総会で会社の解散が決議されました。しかしその後、米ソの冷戦が深刻化する中で、GHQ主導の財閥解体は中断、一度はバラバラにされた三菱関係各社は、三菱グループとして、復活を遂げることになります。
更新:11月23日 00:05