2017年06月15日 公開
2019年05月29日 更新
根津記念館(山梨県山梨市)
「鉄道王」と呼ばれた初代根津嘉一郎の実家邸宅を保存・公開する施設。
万延元年6月15日(1860年8月1日)、根津嘉一郎が生まれました。東武鉄道をはじめ、多くの鉄道の再建に関わって「鉄道王」と呼ばれ、また武蔵学園の創始者としても知られます。
嘉一郎は現在の山梨県山梨市に生まれました。父親の嘉市郎は雑穀を商う裕福な商人です。幼名を栄次郎といった次男の嘉一郎は、ガキ大将として有名でした。やがて明治10年(1877)には18歳で郡書記となりますが、21歳の時に東京へ出奔。陸軍士官学校入学を目指したものの、年齢超過のため資格なしとされます。
3年後、郷里に戻った嘉一郎は自由民権運動に関心を持ちますが、30歳で家業を相続。商売はうまく、父親が残した家産を増やしました。家業のかたわら郡会議員、県会議員となり、自由民権運動の集会への警官の過剰な妨害に抗議して、新聞でその名を上げます。
嘉一郎には「売られた喧嘩は買う」といったところがあり、後に彼が関与するいくつもの会社でも、必ず喧嘩をしています。 村長を務めていた頃、郷里出身の実業家・若尾逸平と出会い、また郷里の先輩・雨宮敬次郎とも知り合いました。彼らは後に「甲州財閥」と呼ばれることになります。若尾から実業は経済の動向、特に将来性を見抜くことが大切であることを学び、今後、「乗り物」と「灯り」が有望であることを示唆されます。
若尾の示唆の影響からか明治29年(1896)、37歳で再び東京に出た嘉一郎は、日本郵船をはじめ海運株を大量に買って、一時は大儲けしますが、株の暴落とともに大借金を負う痛い目を見ました。しかしこの嘉一郎の大胆な動きは実業界の注目を集め、徴兵保険株式会社の設立発起人に推されることになります。
明治32年(1899)には、東京電燈(現在の東京電力の前身)の取締役に推挙されました。若尾が示唆した「灯り」事業です。しかし、当時の東京電燈は経営不振にあえいでいました。嘉一郎は会社再建に取り組み、堅実な経営体質に変えていきます。この頃から嘉一郎自身も、奔放な暴れん坊から、一回り大きな事業家、経営者へと変貌を遂げていったようです。 以後、嘉一郎は経営に行き詰まった会社を買収し、経営を再建させていきました。そんな彼を「ボロ買い一郎」「火中の栗を拾う男」などと揶揄する向きもありましたが、嘉一郎は「社会から得た利益は、社会に還元する義務がある」という信念のもと、黙々と再建事業に取り組みます。
明治38年(1905)に嘉一郎が46歳で社長に就任した東武鉄道もそうでした。当時の東武鉄道は北千住から久喜まででしたが、併行する利根川水運との競争に勝てません。そこで嘉一郎は利根川に架橋し、路線を北に延ばします。その結果、日光や鬼怒川温泉と結んだことで旅客は倍増しました。他にも嘉一郎は東京地下鉄、南海鉄道など、関係した鉄道会社は24社に及び、「鉄道王」の異名をとることになるのです。
その一方で、大正11年(1922)にはわが国初の旧制7年制の武蔵高等学校、現在の武蔵学園(武蔵大学、武蔵高等学校、武蔵中学校)を設立。「国家の繁栄は、育英の道に淵源する」という思いからでした。さらに昭和11年(1936)には武蔵高等学校に根津化学研究所を創設し、物理化学の高度な研究を推進します。
嘉一郎は明治37年(1904)以降、衆議院議員を4期務め、大正9年(1920)より勅選貴族院議員として、政界でも活躍しました。昭和15年(1940)没。享年81。 傑出した実業家でありながら政治家、教育者の顔も備え、「社会から得た利益をどう社会に還元するか」を追求した嘉一郎。当時の実業家のスケールの大きさと、志の高さが伝わってくるように思います。
更新:11月22日 00:05