ここまで記したとおり、関ヶ原合戦以後の家康は豊臣家と対等な立場を維持しながら、徐々にその地位を逆転させることに成功した。二条城の会見以降は、秀頼が臣下の礼を取ったことから、家康が秀頼を一大名として処遇しようとしたふしがある。
ところが、慶長19年の大仏の開眼供養と堂供養では、徳川家の意向どおりにことが進まなかった。ここで家康が天海と崇伝の知恵を拝借したのは、あくまで豊臣家を混乱に陥れるためであろう。
交渉もこじれてしまい、家康の体面が丸つぶれになってしまうため、且元を使って豊臣家に言うことを聞かせようとしたが、うまくいかなかった。
そこで家康は、ついに方広寺の鐘銘問題を持ち出し、且元は先に示した3つの条件を提示した。これは、まさしく家康が豊臣家を本格的に一大名として処遇しようとした瞬間であり、それが真の目的であった。
豊臣家にすれば、秀頼が大坂を離れることや、淀殿を人質として送り込むなど、考えも及ばなかったであろう。
そうなると、今度は「豊臣家という一大名」が家康の指示に従わないので、体面が汚されることになる。家康は豊臣家を滅ぼそうとは思わなかったにしても、何とか一大名として配下に収めたかったのであろう。しかし、豊臣家はついに従うことがなかった。
こうして家康は豊臣家の討伐を決意し、各地の大名に指示を出したのである。そのきっかけが方広寺鐘銘事件の前後の事件であり、片桐且元が追放された一件だったのである。その方法は自らが前面に出ることなく、さまざまな手段を用いて翻弄させるという、老獪な家康のなせる業であった。
【著者情報】渡邊大門(わたなべ・だいもん)
歴史学者。昭和42年(1967)生まれ。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。著書に『黒田官兵衛』『謎解き 東北の関ヶ原』『大坂落城 戦国終焉の舞台』『牢人たちの戦国時代』など多数。
更新:11月22日 00:05