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家康も望まなかった「大坂冬の陣」、勃発の真相を探る

2015年01月05日 公開
2023年01月12日 更新

渡邊大門(歴史学者)

渡邊大門

天下普請と秀頼

慶長9年(1604)、家康は各地の大名に命令し、江戸城の普請を命じた(天下普請)。この計画は、西国方面の豊臣系諸大名を含む全国の諸大名を動員して推進された。慶長11年3月から江戸城普請が本格的に開始されたが、参加した大名の中に豊臣秀頼の名前はない。

しかし、8名の江戸城の普請奉行のうち、2名(水原吉勝、伏屋貞元)が秀頼の家臣であった。秀頼は動員されず、家臣を派遣し普請を差配する側にあった。

江戸城普請は、秀頼の同意と協力を得て遂行され、対等な関係で協力したことになる。したがって、天下普請に関しては、秀頼の協力を取り付けたところに意義があると考えられ、家康の権力と権威、そして徳川公儀の存在を天下に知らしめればよかったのだ。

秀頼は孫娘・千姫の夫でもあり、この時点で秀頼を服従させようとの考えはなかったと考えられる。

 

二条城での会見

慶長16年3月28日、二条城において徳川家康と豊臣秀頼との面会が行なわれた。

秀頼が二条城に到着すると、家康は自ら庭中に出て丁重に迎え入れた。家康は対等の立場で礼儀を行なうよう促したが、秀頼はこれを固辞し、家康が御成りの間にあがると先に礼を行なった。これまで立場的には秀頼が上であったが、とうとう逆転したのである。

二条城での会見は、家康が秀頼を二条城に呼び出し、挨拶を強要して臣従化を行なったとされ、豊臣家に屈辱を与えたとされている。ところが、実際には丁寧な家康の応対ぶりからして、秀頼に臣従を強制したとは考えがたい。

2人の会見の本質は、家康が秀頼を二条城に迎えて挨拶を行なわせたことにより、天下に徳川公儀が豊臣公儀に優越することを知らしめる儀式であった。これは家康により巧妙に仕組まれたものであり、自然な流れの中で豊臣家を下位に位置付けようとしたのである。

一見して家康は秀頼に配慮を示しているが、秀頼は対等の立場でという家康の提案を受け入れるわけにはいかなかった。いうまでもなく、官位などの立場は従一位の家康のほうが上位に位置していたからである。

この頃から、家康は秀頼を一大名として処遇することを強く意識したのではないだろうか。

 

方広寺鐘銘事件

慶長19年(1614)8月、方広寺で大仏開眼供養会の実施が決定すると、天台宗の僧侶で家康の懐刀の南光坊天海は、供養会で天台宗の僧侶を上座の左班にするよう、豊臣方へ申し入れた。

前回の供養会で、高野山の木食応其の主張を受け入れ、真言宗を左班にしたからである。家康も、大仏の開眼供養と堂供養を同時に行なうのか質問した。ともに難題である。

同年7月18日、片桐且元は家康のいる駿府城に赴き、開眼供養と堂供養の日程を午前と午後で実施する策を献じた。しかし、次に臨済宗の僧侶で家康の信頼が厚い金地院崇伝は、家康の意向を汲み取り、2日に分けるべきであると改めて主張した。

同年7月21日、家康は大仏鐘銘に「関東に不吉の語」があり、しかも上棟の日が吉日でないと立腹の意を大坂方に表明している。家康の意を受けた崇伝は、且元に書状を送り、上棟、大仏開眼供養、堂供養を延期し、改めて吉日を選んで実施するよう要請した。

また、方広寺の鐘銘には、東福寺の長老・文英清韓が撰した「国家安康」の4文字について、家康が不快であるとした(家康の2文字が分かれている)。これが方広寺鐘銘事件のはじまりである。

 

こじれた交渉

方広寺鐘銘事件は大いにこじれ、慶長19年7月26日、徳川家康は京都の板倉重昌・片桐且元に上棟、大仏開眼供養、堂供養のすべてを延期するよう要請し、2人は受け入れた。豊臣方は鐘銘問題を解決するため、且元を駿府の家康のもとに派遣した。

ところが、家康は且元に会おうとせず、応対したのは側近の本多正純と崇伝の2人であった。且元は正純と崇伝に対し、豊臣秀頼が家康・秀忠に反逆の意思がない起請文を提出する旨を告げた。正純と崇伝から報告を受けた家康は提案を拒否し、解決策を示さなかった。

同年9月18日、且元は(1)秀頼が大坂を離れ、江戸に参勤すること、(2)秀頼の母・淀殿が大坂を離れ、人質として江戸に詰めること、(3)以上のいずれかの条件が承諾できない場合は、秀頼が大坂城を退去し国替えをすること、の3つの条件を提示し、解決を図ろうとした。

しかし、これより以前、淀殿が派遣した大蔵卿が駿府で家康と面会した際、家康は豊臣家に異心がないことは承知しているとして、淀殿に安心するようお伝え願いたいと言っていた。

家康の心中を知っていた淀殿らは、且元が豊臣家を裏切ったと激怒した。豊臣家中の強硬派の怒りも収まらず、ついに且元を討伐するとの動きになった。

一連の動きは、家康が自らのメンツを守るため、天海や崇伝そして且元らを活用し、自らが手を汚すことなく、豊臣家を臣従させようとしたと考えられる。

同年10月1日、身の危険を感じた且元は大坂城を退去し、居城である摂津茨木城に立て籠もり、大坂の軍勢に備えて防備を固めた。且元の真意は、徳川家と豊臣家の融和を図ることにあったが、実際には家康に翻弄され、思いがけず豊臣家を去り、徳川方に与せざるを得なくなったというのが真相であろう。

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