
元軍の侵攻を跳ね返した英雄として知られる鎌倉幕府の8代執権・北条時宗。しかし、そもそも「元寇」を引き起こした要因は、当時18歳だった時宗や幕府が、世界情勢に対しあまりにも無知だったことにありました。結果的に「鎌倉幕府滅亡の遠因」となった重大事件の真相に迫ります。
※本稿は、河合敦著『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』(三笠書房)より一部抜粋・編集したものです。
突然、高麗(朝鮮の国家)の使者が、文永4年(1267)11月に博多にやってきた。彼らは、モンゴル帝国(元)の皇帝・フビライの国書を携えていた。当時、高麗は元の属国で、フビライから厳命を受けて来日したのである。
翌年正月、鎮西奉行(鎌倉幕府の九州の統率機関)の少弐資能(しょうにすけよし)は、大宰府で高麗の使者たちと対面し、国書を受け取って鎌倉幕府へ届けた。
幕府は、それを京都の朝廷に送達した。当時、外交は朝廷が担っていたらしい。これを受け取って貴族たちは閉口した。まずは国書の内容から、相手の意図を探らなくてはならない。フビライの国書には、こんなことが書かれていた。
「元の属国である高麗と隣接する日本は、昔から中国に使いを遣わしてきた。しかし、私の時代になってから一度も音沙汰がない。きっと元という国家を知らないのだと思い、私は使いを派遣した。ぜひ今後は互いに訪問し合い、親睦を深めよう」
要するに、修好を求める内容だった。ただし、問題だったのがその文末だ。「兵を用ふるに至るは、夫(そ)れ孰(いず)れか好む所ならん。王其れを図れ」と認められていたのである。
現代語にすると「私は兵力を用いたくはない。どうかそのことをよく考えてくれ」という意味だ。交際しないなら武力で服属させるぞ、という脅しにも取れる。
貴族たちが、どのような議論をしたかは不明だが、最終的には無礼なので返事をしないことに決めた。使者は5カ月も大宰府で待たされた挙句、追い返された。
ところが、翌文永6年(1269)にも、高麗の使いがやってきた。今度はさすがに、礼儀として返事を出さないとまずいだろうと考えた朝廷は、元に対する返書を作成した。そこには、次のように書かれていた。
「天照大神が、天皇家の血統を輝かしてから、今の天皇に継承されるまで、天皇の徳のおよぶところは、いずれも属さないことはなく、祖霊・神霊、絶対の盟約、百王の鎮護がはなはだ整っていて、四周の夷狄(いてき)の統治も乱れることはない。そのため皇土をもって、長い間にわたって神国と名づけている」(千田稔著『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』中公新書)
このように、日本はアマテラスが守る神国であり、その血統を有する天皇がいることを誇り、国交を拒否したのである。だが、朝廷が返書を送ると知った鎌倉幕府が、これを差しとめた。やはり最終的な外交権は、幕府が握っていたことがわかる。
しかし、懲りずにフビライは、文永8年(1271)にも高麗の使いを送ってきた。元の国書には、「これまで何度も使者を送ったのに返事がない。同年11月になっても返書をよこさないなら、兵船を送る」と書かれてあった。
驚いた朝廷や幕府は、各寺社に怨敵退散の祈祷を命じるとともに、各国の武士たちにも警戒をするよう通達した。元は強大な国家である。モンゴル平原を制したチンギス・ハンがモンゴル帝国を築き、西夏、西遼、ホラズム・シャー帝国、金を滅ぼして、その子供の代にユーラシア大陸にまたがる広大な領土を征服し、孫フビライの時代に北京に首都を移して、南宋(中国)への侵略を始めた。
フビライが日本に遣いを送ったのは、そんな南宋と親しくしている日本を引き離し、南宋の経済力などを削いでしまおうと考えたからだ。
この時点で、日本を征服する意図はなかったという。なのに、度重なる使節を鎌倉幕府が黙殺したことから、ついにフビライは、日本の征伐を決めたのである。
それにしてもなぜ幕府は、こんな強大な国家からの国交要求を黙殺し続けたのだろうか。南宋に対する配慮なのか、それとも無礼な国書に対し、戦争覚悟で毅然とした態度を見せたのか。
じつは、そうではなく、単に無知だったのである。
1259年に高麗は元に服属したが、高麗の精鋭部隊である三別抄が珍島や済州島を拠点に長年元に抵抗し続けていた。1271年には、日本に援軍を求める使者を派遣している。だが、当時の幕府や朝廷は、隣国であったにもかかわらず、全く半島の情勢を知らず、三別抄の意図を理解できなかったことがわかっている。
幕府の最大実力者は、執権の北条時宗だった。初めて元の国書がもたらされた文永5年(1268)に執権となったが、このときまだ18歳。この若き執権を指導者とする鎌倉幕府が、世界情勢に無知ゆえに元との通交を拒絶し続けたのである。
こうした外交音痴については、研究者の新井孝重氏も「この時代の為政者はまったく国際情勢にうとく、また諸国間の接触経験については、なきに均しい状態であった。いわば無知と外交の未経験が国書を前にして、かれらを硬直させてしまったのである。なにしろ、これまでの外交の経験がないのであるから、仕方のないことであるが、外交上の技術にも暗かった」(『戦争の日本史7 蒙古襲来』吉川弘文館)と述べており、これが学界の定説になっている。
もし当時、現在のような世界地図があって、時宗ら幕府の要人たちに日本と元の国土の大きさの違いを提示したら、さすがに馬鹿ではなかろうから、巨大帝国である元からの使者を無視することはしなかったろう。
素直に国交に応じていれば、フビライもあえて危険を冒して2度も大軍を派遣することもなかったはず。遣唐使のように、定期的に日本が朝貢すれば満足したはず。
ただ、一説によれば、時宗らは意図的に情報を操作されたともいわれる。
鎌倉時代に栄西が宋から臨済禅をもたらすと、北条政子など幕府の要人の保護により、臨済禅は大いに繁栄し、宋からも続々と外国僧が鎌倉に入ってきた。
こうした禅僧たちを、幕府はブレーンとして重用した。ゆえに、元に侵略されつつある祖国のため、宋の僧侶たちが怪しい情報を流し、日本を元と対立させようとした可能性も考えられているのである。
つれない日本に対し、激怒したフビライは文永11年(1274)、3万を超える大軍を渡海させた。元軍はモンゴル人と高麗人の混合軍だったが、対馬、壱岐(いずれも長崎県)の人びとを虐殺しながら突然、博多(福岡市)に上陸してきた。
ある程度、準備を整えていたものの、元軍の戦闘能力など一切知らない御家人たちは、ひどい苦戦を強いられた。そもそも戦いのルールが全く違うのだ。
周知のように日本の武士は、一対一の騎馬戦が基本形だった。武士たちは敵陣に近づき、よき敵を見つけると、相手に名乗りを上げて近づいていく。
しかし、元の兵士たちは、その武士を取り囲んで馬から引きずり降ろして殺したり、集団で矢を射かけたりした。しかも、元軍の矢には毒が塗ってあり、皮膚が傷ついただけで毒が回って戦えなくなった。それだけではない。陶器に火薬を詰めて爆発させる「てつはう」が武士や馬を驚かせた。当時の日本には火薬がなかったからだ。
さらに銅鑼(どら)の音、これも人馬を仰天させた。結局、ほとんど戦いにならず、日本軍は博多湾から大宰府へと撤退することになった。
元軍も夜は船へと戻っていったが、翌朝、そのまま姿を消した。この撤退については諸説あるが、日本側は命拾いしたわけだ。これを文永の役と呼ぶ。
翌年、再びフビライは使者として杜世忠(とせいちゅう)らを送り、鎌倉幕府に服属を要求した。だが時宗は、杜世忠らを鎌倉に連行し、ことごとく処刑した。断固抗戦する姿勢を明らかにしたわけだ。その後もフビライは使者を送ったが、皆殺しにしている。
1279年、フビライはついに南宋を滅ぼし、2年後の弘安4年(1281)、準備を整えたうえで再び博多へ大軍を送った。弘安の役である。しかも今度は14万人という想像を絶する数だった。朝鮮半島からは、高麗軍を中核とする東路軍3万。寧波(中国東部)からは、旧南宋軍を従えた江南軍10万が押し寄せてきた。
ただ、このときは相手の戦法を研究していた幕府軍が善戦し、上陸を阻止しているうち大型台風が襲来、元軍は壊滅的な打撃をこうむって退却していった。
「なんだ。結局、元に侵略されなかったから、使者を無視してよかったじゃないか」
そう思うのは誤りだ。この元寇が、鎌倉幕府滅亡の遠因となったからである。
元寇では、警備や戦の費用は全部自分持ちで、死傷した御家人も少なくなかった。
なのに、外国軍が侵攻してきたのを防戦しただけなので、幕府から新たな土地など十分な恩賞が与えられることはなかった。そのうえ、3度目の元軍襲来にそなえ、御家人たちは交替で博多周辺など北九州沿岸の防備にあたらせられた。
一方、北条氏は、有事を利用して権力を強め、多くの守護職や幕府の要職などを独占するようになった。このため御家人たちの幕府に対する忠誠心が薄れ、結果として鎌倉幕府滅亡の遠因となったのである。
更新:09月03日 00:05