
ロシアには「アネクドート」の文化がある。社会や政治を揶揄するような、風刺を込めた小話のことだ。彼らがアネクドートを必要とした理由とは。長い歴史のなかで、どのようなアネクドートが編まれてきたのか。2度のモスクワ滞在経験があるジャーナリストの名越健郎氏が解説する。
※本稿は、名越健郎著『ジョークで読み解く「ロシア近現代史」』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
ロシア人とエストニア人が議論していた。
エストニア人が言った。
「プーチン政権がこれだけ長期化すると、あんたの孫もプーチンに投票することになるだろう」
ロシア人が答えた。
「あんたの孫もな」
2025年、ロシアのアネクドート(小話)サイトに投稿されたこの作品は、ギクリとさせるブラックジョークだ。ウクライナを攻撃するロシアが、次はバルト三国のエストニアに侵攻し、再びバルトを併合しかねないという地政学リスクを揶揄している。
冷戦終結から30数年を経て、欧州は再びロシアとの戦争の影に怯え、その脅威は冷戦期よりも高まった。
ウクライナ侵攻後、ロシアでは刑法に「軍侮辱罪」なる条項が追加された。反戦運動は御法度となり、庶民はジョークサイトへの投稿を自己規制している。しかし、刑法に抵触しないぎりぎりのところでアネクドートが作られており、特にトランプ米大統領登場後の米ロ関係を扱ったネタには力作が少なくない。
トランプ政権1期目のスローガンは、「Make America Great Again!」
トランプ政権2期目のスローガンは、「Make Russia Great Again!」
問=プーチン大統領が最も美しく奏でる楽器は何か?
答=TRUMPet(トランペット)
トランプ大統領の2期目の就任式後、プーチン大統領が大統領令に署名した。「ドナルド・トランプをロシアの北米連邦管区大統領全権代表に任命する」
以上は、トランプ政権2期目が親ロ外交に舵を切ったことを皮肉るジョークだ。短いフレーズで本質を衝き、世相を斬るのが、アネクドートの神髄である。
ロシアの世論調査では、侵略戦争を進めるプーチン大統領の支持率は80%を超えているが、アネクドートの世界ではそれとは異なる醒めた批判精神が宿っている。
プーチン大統領の国民とのテレビ対話で、シングルマザーが質問に立った。
「私には2人の息子がいます。子育てで国に何を期待すればいいでしょう」
「2通の招集令状だ」
一方、戦火に苦しむウクライナでも、侵略者のロシアを皮肉る作品がスマホなどで飛び交っている。
夜中の3時、ロシア大統領公邸で執事がプーチン大統領を起こした。
「夜分に失礼します。ウクライナ側が降伏について大統領と交渉したいそうです」
「ついに来たな。電話を回してくれ」
「それには及びません。武装したウクライナ兵がドアの外で待っています」
アネクドートはスラブ文化の至宝であり、ロシアだけでなく、ウクライナ、ベラルーシでも語り継がれる。「ウクライナは兄弟国であり、家族の一員」というプーチンの持論は、小話制作の巧みさでも共通する。
ロシアの国民がアネクドート作りに熱中し、醒めた諦観が広がるなら、無駄な戦争は終結に向かうかもしれない。
思えば、20世紀以降、ロシアの民衆ほど政治の激動に翻弄された国民はいないかもしれない。
レーニンによる世界初の社会主義革命、赤軍と白軍の内戦、スターリン時代の大粛清、史上最大の戦争となった独ソ戦、戦後の社会主義建設、そして社会主義の解体と国家の崩壊――。まさに「戦争と革命の世紀」となった20世紀の激動をロシア・ソ連がもろにかぶる形となった。
ソ連邦崩壊後も、1990年代の新生ロシアは経済・社会混乱に見舞われ、カオスに陥った。2000年にプーチン大統領ら旧KGB(ソ連国家保安委員会)勢力が政権を掌握すると、政治、経済は安定したが、強権体制に逆戻りし、22年には兄弟国・ウクライナに全面侵攻する衝撃的な展開となった。
このような激動を横目に、ロシアの民衆はアネクドートによって憂さを晴らし、事態を諦観してきた。ソ連時代、民衆は秘密警察の監視や密告を恐れ、従順に振る舞いながら、裏では政府や指導者を小話で痛烈に批判していた。
かつて旧共産圏の政治ジョークには、「部分的な真理が必ず込められている」という格言があった。庶民の不満や憂さを晴らし、現実を直視する醒めた批判精神が、やがてソ連邦を崩壊させる陰の原動力になった。
ソ連崩壊後の市場経済もいびつな展開を遂げ、急激な民営化や利権闘争の結果、貧富の格差が天文学的に広がった。億万長者のエリートは内外に不動産を持ち、地中海に豪華ヨットを浮かべて豪奢な生活を謳歌するのに対し、多くの庶民は生活苦にあえいでいる。
近年の小話は、オリガルヒといわれる新興財閥を揶揄する作品が多いが、アネクドートは昔も今も、欲求不満の解消材なのだ。
ロシア人が気のおけない集まりで、アネクドートを披露し合うことはよく知られている。ロシア人の生活の中で、アネクドートは重要な位置を占めてきた。リラックスした会話では、気の利いた一口小話を披露し合うことが習慣であり、「こういうアネクドートを聞いたか」「新しいネタはないか」が挨拶代わりだった。筆者は時事通信社の記者として、1991年のソ連邦崩壊前後とプーチン時代初期の2度モスクワに駐在したが、モスクワ生活の楽しみの一つが、新作のアネクドートを仕入れることだった。
ロシア人の自宅に招かれ、興が乗れば、たいてい小話のオンパレードとなった。強くないので閉口したが、ウオツカを3、4杯流し込み、体が温まると、「こんなの知ってる?」と披露が始まる。
アネクドートには、ロシア語の韻を踏んだ難解なものが多く、そのような場では私だけが笑えず、何度も説明を頼んで座をしらけさせたものだ。
2度目の赴任の時は、飲み会の前に小話を4つ、5つ用意し、ロシア人の助手に文法などを直してもらい、スマートな表現で臨むようにしていた。
ジョークのセンスや現実をパロディー化する能力にかけては、ロシアは先進国で、日本人はなかなか対抗できない。
現実を皮肉るアネクドートの語源は、ギリシャ語の「アネクドトス」(非公開情報)から来ており、帝政時代の18世紀からロシアに定着した。
アネクドートには、政治風刺以外にも、経済、社会、歴史、民族、軍隊、生活、エロティシズムなど多くのジャンルがある。それは百科事典のように幅が広く、ロシア社会のあらゆる断面を網羅している。
政治風刺のジョークは、統制の厳しいソ連時代に異様な発展を遂げた。民衆は秘密警察の監視や密告を恐れ、従順に振る舞いながら、本音では政府や指導者、生活苦を小話で痛烈に批判してきた。
スターリン時代には、政治小話を口にしただけで、反ソ宣伝・扇動罪で収容所送りになった例もあり、命がけだった。
1970年代にフランスに亡命した反体制作家、アンドレイ・シニャフスキーは「われわれは親しい友人の間で、まるで最新のニュースのように一口小話をすることにすっかり慣れているので、自分たちがこの巨大な口承文学の繁栄の時代に生きているという幸福に気づかないほどだ」と書いた。アネクドートこそ「現代のフォークロア」(ロシア文学者の沼野充義氏)と言えよう。
日本では、世相を風刺して笑いを取る川柳が江戸時代から親しまれてきたが、五.七.五の17音という形式や制約がある。ロシアのアネクドートは定式もルールもなく、自由な発想で底が深いのである。
更新:08月16日 00:05