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【2027大河『逆賊の幕臣』】小栗忠順(上野介)はなぜ出世できた?幕府が「目付」に抜擢した本当の理由

2026年08月12日 公開

安藤優一郎(歴史家)

小栗忠順小栗忠順(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」https://www.ndl.go.jp/portrait/)

2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公として注目を集める小栗忠順(おぐりただまさ/上野介)。若くして格式の高い「書院番」となり、29歳で家督を継ぐと、幕臣たちが羨望する「目付」に抜擢される。青年期から数字に強い関心を示し、開国論を支持していた忠順。彼はいかにして頭角を現したのか?その出世の軌跡と「目付」抜擢の真相に迫る。

※本稿は、安藤優一郎著『幕臣・小栗忠順の真実』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。

 

「入るを量りて出ずるを制す」と記された家計簿

天保14年(1843)3月23日、小栗忠順は江戸城に登城し、将軍徳川家慶に初めて拝謁した。初御目見である。これにより、正式に小栗家の嫡男として認められた。

弘化4年(1847)4月16日、忠順は西丸書院番として御番入りを果たし、父忠高の家禄2500石とは別に300俵を賜わる。21歳の時であった。20代に入ったばかりで、その上、家督相続前の御番入りでもあり、順調なスタートを切る。

御番入りでも、五番方のうち書院番と小姓組は両番と称されて格式が高く、小栗家の歴代当主も、書院番か小姓組のどちらかに入るのが慣例だった。幕臣のなかでは毛並みの良い三河譜代の旗本といえども、役職に就けず一生を終える者が多かったのが現状であり、忠順は非常に恵まれていた。

忠順の日記と家計簿が残されている。日記は慶応3年(1867)と4年だけだが、家計簿は3冊残され、1冊目は嘉永3年(1850)1月から安政2年(1855)5月までのものであった。

書院番として300俵を支給された頃から、数字に強い関心を持っていたことが窺える。『量入制出簿』という表紙が家計簿に付けられているのも非常に興味深い。「入るを量りて出ずるを制す」、収入の額を計算して支出の計画を立てるという意味であり、幕府財政を預かる勘定奉行を4度も務め、その手腕を発揮した将来の姿が見えてくる。

書院番(10組ほど)各組は番頭1人、組頭1人、番士50人、与力10騎、同心20人で構成され、江戸城本丸御殿の白書院前の紅葉之間(後に虎之間)に詰めた。書院番は将軍世子の居所である西丸御殿にも置かれ、西丸書院番の番士となった忠順は13代将軍となる世子家定の警護にあたった。

この頃、同じく砲術の田付主計の門下に、開港論を唱える結城啓之助という与力がいた。青年期から開港論者であった忠順にとり、儒学者の安積艮斎(あさかごんさい)はもちろん結城の存在も大きかったとされる。2人の影響を受け、日本からも3本マストの商船で中国大陸に進出して貿易することを唱えた。貿易を通じた富国強兵を目指したのである(戸川残花「史伝 小栗上野介」)。

西丸書院番士の時代から開港つまり開国論者であった忠順は、ペリー来航の翌月にあたる嘉永6年(1853)7月には進物番を兼ねる。進物番は、大名や旗本からの献上品及び将軍からの下賜品を取り扱うため、将軍との距離が近くなる役職だった。同9月には西丸から本丸書院番に移る。11月には家定が将軍の座に就いて本丸に入った。

 

エリートコースが約束された役職

ペリー来航にはじまる国難を受け、幕府は外交や海防に忙殺されるが、小栗家もその渦に巻き込まれる。

嘉永7年(1854)1月にペリーは再来航し、3月に日米和親条約(神奈川条約)が武蔵国久良岐郡横浜村(現神奈川県横浜市)で調印された。再来航の折、忠順は江戸湾岸の浜御殿(現浜離宮恩賜庭園)で警備にあたっている。浜御殿は江戸城外に置かれた将軍の庭園であった。

同年閏7月、持筒組(将軍の鉄砲を管理する部隊)の頭を務めていた忠高は新潟奉行に任命された。番方の持筒頭から役方の新潟奉行に抜擢され、海防強化の最前線に立ったのである。10月には、新潟に着任した。

ところが、翌安政2年(1855)7月18日、忠順は幕府の許可を得て、急遽新潟に向かった。忠高病気の知らせが入ったのである。24日に新潟に到着するが、忠高の病いは重く、28日に病死した。

10月22日、忠順は家督相続を許され、小栗家12代目当主となる。29歳の時であった。

同4年1月11日には、書院番の番士から使番に転じた。12月16日には、儀式の際に布衣を着用することが許され、従六位に相当する格式となった。6年9月12日には目付に抜擢される。

目付は旗本の間で唾涎の的になっていた役職だった。目付に選ばれ、その仕事ぶりが将軍や幕閣に評価されれば、幕府のエリート官僚となることが約束されたからである。

目付をこなした後は、京都町奉行、大坂町奉行、長崎奉行、忠高も任命された新潟奉行などの遠国奉行として幕府直轄地に派遣される。現地での実績が評価されると、江戸に戻った際には、大名役の寺社奉行とともに三奉行に数えられる勘定奉行や町奉行に抜擢されることも夢ではない。

旗本が就ける行政部門の役職のなかで、町奉行と勘定奉行はそのトップと位置付けられていた。それだけ、幕政に強い影響力を行使できる役職なのであり、忠順も後に両奉行職を務めている。

目付という仕事

目付は奉行のような行政職ではなく、幕臣の行状や幕府役人の勤務状況の監察が主たる任務であった。だが、綱紀粛正のみならず政務の監察にもあたったことで、幕府内部では隠然とした影響力を誇る。そのほか、江戸城中での礼法を指揮し、三奉行を構成員とする評定所での吟味に立ち合うなど、幕府有司のなかで指折りの激職だった。

定員は10人で、城内の執務室(御目付部屋)には本番1人と加番2人の目付が昼夜問わず常駐した。執務室の2階や目付方御用所には部下の徒目付が詰め、目付が上申する意見書の起草などにあたった。

監察職たる目付は、幕閣を構成する老中や若年寄に諸事意見を述べることが許された。仮に老中に問題がある場合は、将軍その人に言上しても構わない。相手が老中であっても弾劾できた。

目付の正式名称は「御目付」である。「御」には、将軍に代わって幕政や役人の行状に目を光らせるという意味が込められていた。

目付は人事にも深く関与する。諸役人の人事に関わったのは老中と若年寄だが、その指示を受けて密かに候補者を調査し、探索結果を報告した。旗本や御家人の行状を絶えず監察する仕事柄、人事の参考になる情報は豊富に持っていたが、配下の徒目付や小人目付をして、さらなる情報を収集した。

徒目付と小人目付はともに御家人で、その数は各50人ほどである。目付指揮のもと城内の宿直、大名登城時の玄関の取り締まり、評定所への出役のほか、役人の執務の調査などにあたった(安藤優一郎『お殿様の人事異動』日経プレミアシリーズ)。

しかし、幕府は政務や幕臣を監察させるため、忠順を目付に起用したのではなかった。目付に任命された翌日の9月13日、江戸城芙蓉之間において、アメリカに派遣される使節(遣米使節)の「立ち合い」を命じられる。日米修好通商条約の締結に伴い、アメリカで批准書を交換するため外国奉行新見正興を正使、同役の村垣範正を副使とする使節を派遣することになるが、その監察役として白羽の矢が立ったのであった。

プロフィール

安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)

歴史家

昭和40年(1965)、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士後期課程満期退学(文学博士)。江戸をテーマとする執筆、講演活動を展開。おもな著書に、『明治維新 隠された真実』『教科書には載っていない 維新直後の日本』『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』などがある。

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