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豊臣兄弟だけじゃない!毛利家と島津家、戦国時代を生き抜いた「兄弟の絆」

橋場日月(作家)

島津義弘

大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、豊臣秀吉と秀長兄弟の活躍が描かれているが、戦国時代のほかの兄弟をみると、固い絆で結ばれる者たちもいれば、いがみ合い、埋めがたい溝を抱える者たちもいた。力の優劣が命運を左右する戦国時代において、武将たちが見せた「兄弟のかたち」とはどのようなものだったのか。作家の橋場日月氏が、互いに支えあい、強い絆で結ばれた毛利家と島津家の例を、作家の橋場日月氏が解説する。

※本稿は、『歴史街道』2022年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

【毛利隆元・吉川元春・小早川隆景】他家へ養子に入り、本家を守り抜いた「両川」

安芸国の弱小豪族から中国地方の覇者に成り上がった毛利元就には9人の男子(異説あり)があった。そのうち正室・妙玖が産んだ隆元・元春・隆景の3名は、兄弟のなかで年長でもあり、元就は期待をかけた。

長男の隆元を世子とし、三男の隆景を天文13年(1544)に小早川家の養子とすると、天文16年(1547)には次男の元春を吉川家へ養子として送り込む。以降、「毛利両川」と呼ばれる、吉川・小早川の両家が本家を支えるシステムができあがった。

弘治3年(1557)、元就は隆元・元春・隆景に「三子教訓状」をしたためた。のちに「三矢の教え」のエピソードの元ともなる書状だ。そこには、「毛利の家が廃れないよう精一杯心がけ、配慮することが大切だ、毛利の家が廃絶しないように三兄弟が結束せよ。元春が吉川家を、隆景が小早川家を継いだのはあくまでも当座のことで、本家の毛利を片時も忘れるな。当家の勢いが弱くなれば、人の心は変わるだろう」とあり、噛んで含めるように諭している。

当時、元春と隆景はそれぞれ養子先である吉川家・小早川家を発展させようと努め、本家の毛利をないがしろにする傾向があったらしい。元就はそれを危ぶんでいたようだ。兄弟は元就に誓紙を出し、毛利家を守る事を約した。

元春は「智勇兼備だが勇の方が勝っている」、隆景は「智が勇に勝る仁の武将」と評される名将で(『陰徳記』)、その後の合戦も常に協力して毛利家の覇業を助けたのだ。隆元が自分を「生まれつき才覚も無く徳も力も無い」と自虐するほど控えめな性格だったことも、弟たちに反発心を抱かせないポイントだったのかも知れない。

ところが永禄6年(1563)、毛利家に隆元の急逝という悲劇が訪れる。隆元の子・輝元が2年後に元服し、「三家(毛利・吉川・小早川)は常に合議制で物事を決します」と宣言すると、元春と隆景は後見役の元就とともに甥を補佐し、あるいは指導していくこととなる。

元亀2年(1571)に元就が没し、織田信長との対決を経て、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が没しても、この関係は変わらなかった。

天正14年(1586)、元春は秀吉の九州平定に参加し、陣中で病死するが、残された隆景は「輝元と隆景の関係は良好で、日本一のことだ」と秀吉から賞賛されている(安国寺恵瓊書状)。

三兄弟最後のひとりとして、その後も引き続き毛利家を守り立てることに専心していた隆景の態度に揺るぎは無かった。

外様の大勢力である毛利家の団結を崩したい秀吉は、甥の秀秋を毛利家の養子に送り込むべく画策した。それに対し、隆景は秀秋を自分の養子とすることで秀吉の目論見を阻止し、大江広元以来の毛利家の"純血"を守った。輝元とともに豊臣五大老に連なり、毛利家の立場が強化されたことを見届けると、隆景は慶長2年(1597)に死去した。三兄弟の絆は毛利家を守り抜いたのだ。

 

【島津義久・義弘・歳久・家久】「暗君なし」と言われた兄弟の結束

薩摩の島津家には「島津に暗君なし」という言葉があるが、特に戦国時代、義久・義弘・歳久・家久の四兄弟は揃いも揃って優秀だった。

祖父の忠良は「義久は総大将の徳、義弘は武勇、歳久は知略、家久は戦略戦術に秀でている」と評したが、永禄9年に長兄の義久が当主になると、兄弟の結束はさらに強まって元亀元年にはついに薩摩を完全に統一する。

元亀3年(1572)、日向の伊東義祐・肥後の相良義陽との決戦「木崎原の戦い」では、義弘が3000対300という圧倒的に不利な兵力差の中で、敵を日向加久藤城に引き付け、伏兵や擬兵で相良軍を牽制。戦闘の疲労と折りからの暑さで、川で水浴びをするなどして弛みきっていた伊東軍に攻めかかった。

混乱する伊東軍に加久藤城の兵も突撃した。「九州の桶狭間合戦」とも呼ばれるこの戦いでは、総大将の伊東祐安(義祐のいとこ)も討ち死に。島津軍の圧倒的勝利となった。

天正6年、豊後の大友宗麟が相良義陽の懇請を受けて日向に出陣すると、義久以下四兄弟が揃って活躍、「耳川の戦い」として有名な歴史的大勝利を呼んだ。

義久はこの戦いで「5日の内に勝負をつける」と宣言したというから(フロイス『日本史』)、最初から短期決戦を志向し、それを実行してみせたのだ。

島津四兄弟は、日向、肥後の二方面から九州北部へ勢力を拡大していく。

天正12年(1584)、肥前を中心とする大勢力、龍造寺隆信との「沖田畷の戦い」と呼ばれる合戦に臨んだのは、四男の家久だった。

家久は伏兵を配置し、敵を深く引き込んで叩く「釣り野伏」戦法で10倍近い龍造寺軍を殲滅。隆信をも討ち取る大戦果を挙げ、九州全土における島津家の覇権を確立させる。

しかし、ここで四兄弟に逆風が吹いた。天正15年(1587)、豊臣秀吉の軍勢20万が九州に上陸したのだ。

島津軍は2万に過ぎず、各地で豊臣軍に圧倒され、みるみるうちに追い詰められた。四兄弟のうち、義久と義弘は秀吉に降伏したが、当初秀吉の力を認め、講和派だった歳久は「今この期に及んでそのまま降伏すれば、当方に不利となる」と徹底抗戦を主張した。彼は結局5年後に、兄・義久によって自害に追い込まれた。
だが、それでも彼は「兄に敵意は無い」と遺言していたという。

また、末弟の家久は、最も早く豊臣軍に降伏していたが、直後に病で急死した。
残された義久・義弘について、秀吉は義弘に大隅を与え、のちには事実上の島津家当主として扱う。だが、朝鮮出兵で「鬼島津」と呼ばれ、関ケ原の戦いで「島津の退き口」を演じた猛将・義弘は、最後まで義久をたて、島津家の団結は守られる。

プロフィール

橋場日月(はしば・あきら)

作家

昭和37年(1962)、 大阪府生まれ。日本の戦国時代を中心に 歴史研究、執筆を行なう。著書に『地形で読み解く 「真田三代」最強の秘密』『新説 桶狭間合戦─知られざる 織田・今川七〇年戦争の実相』『明智光秀 残虐と 謀略─一級史料で読み解く』などがある。

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