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「毛利家は天下を望まない」秀吉に恩を売った智将・小早川隆景の判断力

2024年12月09日 公開

橋場日月(作家)

備中高松城址
備中高松城址

難しい立場に立たされたとき、一か八かの決断を迫られたとき、 存亡をかけた局面に置かれたとき......、きらりと光る能力を発揮し、 見事に苦境を打開した戦国武将がいた。今回は、小早川隆景を紹介しよう。

 

智が勇に勝る仁の武将

小早川隆景について「智が勇に勝る仁の武将で、まるで春の先駆けとなる楊柳のような人だった」という評がある(『陰徳記』)。理性が感情を抑制し、一時の激情やメンツにこだわることなく、じっくりと考えて結論を出し、行動に移すタイプと言えるだろう。

ひらめきに頼るハイリスク・ハイリターンの戦略よりも、熟慮に熟慮を重ね、リスクを回避し、確実なリターンを得る。それこそが隆景の生き方だった。その傾向は若いころからすでに見られる。

彼は天文16年(1547)、備後国神辺城の戦いで初陣を果たすのだが、難攻不落の敵城を前にした場合、血気に逸る若者は、つい華々しい手柄欲しさに、無理攻めをおこないそうなものだ。ところが隆景は違った。城を包囲し、なんと2年半もの間、敵が弱るのをじっくりと待って、開城降伏にこぎつけたのだ。

その後主家である毛利家は、隆景やその兄・吉川元春らの尽力もあって大いに発展し、中国地方11ケ国以上に及ぶ大版図を築き上げるのだが、そうなると必然的に中央の織田信長と衝突することになる。

天正10年(1582)、信長の重臣で中国方面の司令官だった羽柴秀吉は、備中高松城を包囲。有名な水攻めをしかけた。

城を救援するために隆景は、毛利輝元や元春とともに駆け付けたが、秀吉の軍勢と戦えば、そのまま釘付けにされて信長の援軍と挟み撃ちになるのが確実なだけに、対陣したまま時間が過ぎていった。

ところが、6月2日に事態は急変する。

「信長公、本能寺の変で急死!」。

悲報を受けた秀吉は急遽上方に引き返そうと素知らぬ体で毛利軍と講和を結び、東へと軍勢を翻した。

一方、信長の死を知った毛利軍の陣中では、元春はじめ、「謀られての講和など無効。追撃すべし」とする声が圧倒的だった。しかし、「すでに誓書を交わした以上、それを反古にするのは毛利家の"信義"に反する」とし、それでも納得しない者たちに「父・元就公の教戒により、当家は天下を競望しないことになっている」と戦いを禁じた(同書ほか)。

毛利家は、信長によって京を追放された室町将軍・足利義昭を保護している。もし秀吉を追撃して首尾良く討ち取ったとしても、帰洛を目指す義昭によって、しゃにむに京まで進軍させられるに違いない。そうなれば、信長を討った明智光秀、光秀を討とうとする柴田勝家・徳川家康らとの戦いに引きずり込まれるだろう。そんなことになっては、最悪の場合敗れて、現在の領地まで失う可能性がある。

こうして追撃を制止し、秀吉に恩を売った隆景は、のちに豊臣家の大老になった。彼は秀吉の名軍師・黒田官兵衛(のちの如水)に対し、「あなたは頭が良く判断が早いが、私は十分に吟味を重ねたうえで結論を出すから後悔はしない」とアドバイスしたという(『名将言行録』)。

判断力は回転の速い頭脳で素早くおこなうより、状況や利害得失をじっくりと考慮する方が優れている。そう諭す隆景の言葉は、本人の事績を見ると納得せざるを得ない。

 

著者紹介

橋場日月(はしば・あきら)

作家

昭和37年(1962)、 大阪府生まれ。日本の戦国時代を中心に 歴史研究、執筆を行なう。著書に『地形で読み解く 「真田三代」最強の秘密』『新説 桶狭間合戦─知られざる 織田・今川七〇年戦争の実相』『明智光秀 残虐と 謀略─一級史料で読み解く』などがある。

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