2018年06月12日 公開
2019年05月29日 更新
慶長2年6月12日(1597年7月 26日)、小早川隆景が没しました。兄・吉川元春とともに毛利家を支えた名将として知られます。 今回は、毛利軍と秀吉軍との和睦のくだりが『名将言行録』にはどのように描かれているか、簡単に紹介してみましょう。
信長の大軍が迫っていることを知った毛利軍首脳は、備中・備後・伯耆3国を織田に割譲することで和睦を望み、秀吉軍に使いを送ってその旨を伝えました。そこに本能寺の凶報が届きます。秀吉は、毛利家の使いの者に本能寺で信長が討たれたことを包み隠さず伝え、「このような事態になった以上、われらとよしみを結ぶ話はそのままというわけにはいくまい。陣に戻り、汝の主の意向を確認してまいれ」と使いの者を帰しました。
使いの者から信長討死を聞いた毛利輝元は「毛利は織田と和睦をしようとしたのであって、秀吉のために和睦するのではない。ひとまず本国に戻り、形勢を窺おう」と言いますが、これに異を唱えたのが小早川隆景でした。
「わしはそうは思わぬ。いまや天下の争乱は極みを迎え、泰平の世になるのも遠い日ではあるまい。いま、日の本の争乱を鎮めうるのは誰かと見れば、おそらく羽柴秀吉に違いない。この度の信長討死は秀吉にとって凶変のように見えるが、実は彼の者に天下が帰す時がきたのだ。そもそも敵と和睦しようとしている時に主君討死の報せを受ければ、まずはこれを隠し、盟約を結んでから明かすのが常道である。しかるに秀吉は率直にこれを明かした。はなはだ不敵ではないか。もしいま秀吉との和睦を蹴れば、秀吉は長く我らを憎み、いずれ毛利は秀吉に滅ぼされるであろう。それよりもむしろ直ちに和睦を結び、恩を売ることで、秀吉の天下取りに毛利の将来を賭けようではないか」
この隆景の発言で毛利は和睦の方向にまとまり、それを秀吉に伝えると、秀吉は大いに喜びました。そして毛利とのよしみは今後も変わらないことを起請文を交わして約束し、中国大返しを行なって、明智光秀を討つのです。すべて隆景の読み通りでした。
いささか誇張された感はありますが、大筋はこの『名将言行録』の描くものに近かったのかもしれません。本当に和睦交渉中にあえて信長の死を毛利方に伝えたのかどうか、史料的な裏付けはなく、普通に考えれば秀吉は交渉締結まで黙していた可能性は高いでしょう。しかし毛利との決戦の構えであったところを、急に条件を緩和して和睦を結びたいと秀吉側から提案すれば、「何かあったのでは?」と相手に勘ぐられるのは当然です。まして相手が安国寺恵瓊や小早川隆景ともなればなおさらでしょう。
戦さであれば、騙すのは当たり前。その場を切り抜けることだけを考えれば、都合の悪い情報は伏せて交渉をまとめるのは当たり前。それは現在のビジネスでも同様かもしれません。しかし、その場しのぎでなく、相手を今後も味方につけたいと思うのであれば、相手に「騙された」という感情を持たせるのは得策ではありません。むしろ包み隠さずに話したうえで、どちらにつくか選択させる余地を与えつつ説得する方が、相手も納得するでしょう。ただし、その情報はキーマンにのみ伝え、その場で決定させなければ難しい。衆議にかければ紛糾するのは目に見えているからです。
なお、隆景の決断を聞いた吉川元春は反対し、秀吉軍追撃を主張したといいますが、最近では、元春は破約追撃を主張していないとする見方もあるようです。しかし、元春がその後も秀吉とうまくいかなかったのは事実です。毛利内部の暗黙の対立のきっかけがここにあったとするならば、まさか秀吉や官兵衛がそこまで見越してはいないでしょうが、なかなか興味深いものがあります。
更新:11月21日 00:05