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島津義久の「抜群の交渉力」 豊臣秀長を相手に身ひとつで命乞いした策略

2024年11月27日 公開

橋場日月(作家)

舞鶴城屋形跡
舞鶴城屋形跡

難しい立場に立たされたとき、一か八かの決断を迫られたとき、存亡をかけた局面に置かれたとき......、きらりと光る能力を発揮し、見事に苦境を打開した戦国武将たちがいた。今回は、島津義久を紹介しよう。

 

「総大将の器」と目された、島津義久の能力

島津義久といえば祖父の日新斎から「総大将の器」と期待され、天正5年(1577)には薩摩・大隅・日向三ケ国の統一を成し遂げた戦国大名だが、武略の義弘、知謀の歳久、「仁将」と評された家久の三人の弟と比べると、「具体的にどんな能力に長けていたの?」と思われがちだ。だが実際は、教訓をうまく吸収消化してスキルを上げることで、次の機会に活かすという点で非常に優れていた。

では、義久は何のスキルを上げたのだろうか。それが「交渉力」だ。

天正14年(1586)1月11日、彼は細川幽斎へ書状をしたためる。

「当方としては少しも我が領地を減らすわけには参りません」。

幽斎が仕える関白・羽柴秀吉(8ケ月後に豊臣姓を賜る)は服従を要求し、「島津家の領地は薩摩・大隅・日向の三ケ国と肥後・筑後のそれぞれ半分ずつとする」としていた(『島津家譜』)。

このころ義久はすでに、豊前・筑前まで勢力を伸ばしており、秀吉の条件を蹴ったわけだ。イケイケで拡大している真っ最中に事業縮小に切り替えれば、下の者たちはクーデターを起こしかねない。啖呵を切っておいて、秀吉が討伐軍を興す前に、九州全土を制圧しようと考えたのだが、いざ秀吉の親征が実行されると、25万に及ぶ豊臣軍の攻勢の前に戦意を失った彼は、降伏を申し入れるほか無かった。

秀吉は九州征伐にあたって「島津一類首を刎ねるべく候」と公言していたのだが、義久が国も居城も明け退いて身ひとつで投降し、命乞いをしてきたから仕方なく許した、と書状に記している。何もかも捨ててすがって来る者を処罰するのは、なかなかに難しいのだ。

そのうえ、義久が投降にあたって飛び込んだのは秀長(秀吉の弟)の陣だった。従来から秀長を外交窓口としていた義久は、ここでも秀吉の信頼厚い秀長を頼り、さらに千利休、それに朝廷や室町幕府への取り次ぎをしていた近衛前久ら、従来からの外交ルートをフルに活用して運動。結果、島津家を薩摩一国に押し込めようと考えていた秀吉は、最終的に大隅一ケ国と日向の南半国も与えることになる。 

さらに彼は、この経験を慶長5年(1600)の関ケ原の戦い後にも活かした。

弟の義弘は行きがかり上、徳川家康に敵対し、あまつさえ家康の目の前を突っ切る「退き口」を演じたため、心証ははなはだ悪い。そのままならただでは済まなかった筈なのだが、義久は国境の守備を固めるとともに、近衛信尹(前久の子)らを頼って弁明をおこない、家康からの詰問に対しては、「義弘の行動を自分は関知していなかった」と主張。

責任の所在をあいまいにし、加藤清正・黒田如水・細川忠興を警戒して、九州征伐に踏み込めない家康の弱みにつけこんで1年半も降伏を拒み続け、とうとう家康を根負けさせたのだ。

毛利家が3分の1、上杉家が4分の1の大減封に処され、長宗我部家は取り潰しとなったように、ほかの敵対大名が厳しく処分されたにも拘わらず、今度は領地を100パーセント保つことに成功したのだった。経験が生んだ粘り腰の交渉術が、島津家を無事に存続させたのだ。

 

著者紹介

橋場日月(はしば・あきら)

作家

昭和37年(1962)、 大阪府生まれ。日本の戦国時代を中心に 歴史研究、執筆を行なう。著書に『地形で読み解く 「真田三代」最強の秘密』『新説 桶狭間合戦─知られざる 織田・今川七〇年戦争の実相』『明智光秀 残虐と 謀略─一級史料で読み解く』などがある。

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