↑藩の学校・造士館跡
島津重豪は、将軍家との婚姻関係で薩摩藩の権威を高めた一方、交際費用などにより藩の借財も膨れ上がらさせてしまった。財政難を脱するため、重豪は調所広郷を改革主任に任命。調所は大胆な改革を断行し、薩摩藩の財政再建に大きな役割を果たした。調所による「財政改革の切り札」とは? 書籍『島津氏』(PHP新書)より解説する。
※本稿は、新名一仁, 徳永和喜著『島津氏 鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです
島津重豪の藩主在位期間は、宝暦5年(1755)から天明7年(1787)。島津家二十五代当主であり、薩摩藩八代藩主。父・重年は宝暦3年(1753)、幕命による木曽川治水工事(宝暦治水)を命ぜられ、莫大な費用と殉職者80余の犠牲者を出し完成させた。
同5年5月に完成し、それを見届けた翌月、重年は心労が重なり27歳で病死した。家督は11歳の重豪に継がれ、若き藩主の誕生となった。若年のため祖父継豊が藩政を担った。
重豪の事績では、安永元年(1772)藩校・造士館を設立、儒学者の山本正誼を教授とした。また、武芸稽古場・演武館を設立し、教育の普及に努めた。翌2年には、明時館(天文館)を設立し、農業推進のための天文学や暦学の研究をおこなった。
将軍家との婚姻関係を持つ唯一の大名は島津家であり、しかも2回の婚姻がなされている。最初は十一代将軍・徳川家斉の正室(御台所)となった広大院(茂姫)で、重豪の娘である。
重豪は将軍の岳父として高輪下馬将軍と称され、政治的には薩摩藩の権威を最も高めた藩主といえるが、そのことが逆に藩財政を圧迫し、薩摩藩は500万両の借財を持つ類例のない窮乏藩となった。その財政難の改革のために調所広郷を改革主任に命じ、改革を断行させ、結果成功した。
また、重豪は中国・欧米文化にも強い関心を示し、二十八代当主となった曾孫の斉彬の思想形成や近代化政策に強い影響を与えた。
薩摩藩の借財の推移を表にまとめると、次のようになる。
財政困難の経緯を示す史料「海老原雍齋君御取調書類草稿」によれば、江戸邸中月給十三カ月滞リ、諸買物ノ代価・夫賃亦同シ、使ヒ出ルニ駕籠ノ夫ヲ給スルコト能ハス、歳末ニ贈ル目録モ金ヲ渡スコトヲ得ス、邸中草長シ馬草トスルニ至リ
とあるように、江戸藩邸勤務の藩士の給金が13か月も滞り、藩邸には草が生え放題で人夫雇用の賃金もなく馬の秣として馬に食ませる次第であったという。さらに参勤交代の旅費もなく江戸滞在を余儀なくされるなど「至困の極」なりと表現している。
借財が急激に嵩んだ理由について、新納時升著の『九郎物語』(本来は苦労の意味)には重豪時代の繁栄の裏にどれほどの経済負担があったかを実直に述べた鋭い指摘が記されている。
第一は、将軍家への輿入れと将軍家との交際費用が厖大であること。十一代将軍徳川家斉の正室となった重豪の娘茂姫(後の広大院)の経費を新納時升は「此事は商議の及ぶ所にあらず」と書くなど、それがどれほどであったか、計り知れないといっている。
第二は、薩摩藩には三侯(藩主が三人)いるという。高輪邸には大隠居重豪、実質20万石相当の諸侯並みの生活や必要資金、白金邸の隠居斉宣は10万石相当の諸侯並み、それに本邸(藩主)斉興を合わせ薩摩藩は三諸侯を抱えているようなものであり、経費はとても領国生産額では及ぶものでない。本邸の芝には藩主斉興と世子斉彬がいる。
第三は、重豪公子の養子縁組や婚姻政策。重豪は諸侯の養嗣にさせる政策を積極的に実践し、中津藩に昌高、黒田藩に斉溥、八戸藩に信順を藩主養嗣に据えた。養嗣費用は、2、3万両は下らないとのこと、合計は10万両ともいわれ、また、息女十余君を列侯に輿入れさせ、これも一人に一万両は下らず、化粧料一年に一人千両と見積もると合計では一万両、10年すれば十万両と費用負担を推測している。
この3か条により表向きには薩摩藩の威光が天下に輝いたが、財政負担は藩の力をはるかに超え、藩財政は悪化の一途をたどっていった。
調所広郷の財政再建の一つの手法をみる。
「藩領内で生産した米は肥後米よりは劣るものの、俵を精巧に造り、米の品質もあがり他領米より優れたものであると思われるのに実績が得られないのはなぜか」。調所はその疑問を持っていたが、解答を見出していた。
問題点は大坂への米積船が「年々長防又ハ阿州辺の借船にて候」(「海老原清熙家記抄」)にあることを指摘し、長州・防州、阿州から薩摩藩に商売に来た帰船に薩摩藩の米・専売品を日本の流通拠点大坂に運んでもらっていたことに起因していることを突き止めたのである。
阿州とは阿波藩のことで、薩摩藩でも需要の高かった藍玉商売に来た船の帰り便を頼っていたことは、運賃が極端に安かったことによるものであるが、それは逆に、藩独自に所有する船団がなかったこと、海運業者が成長していなかったことをも意味するのであった。
その解決策に、四艘(富吉丸・富永丸・富福丸・富徳丸)を重富(鹿児島県姶良市)で造船して藩直営による海運業務を営み「三島方」と称した。他藩船に頼った海運では大坂で商売する時期や数量を管理することができないため、効率化や利益、将来性を見越した藩営商船団所有という決断がなされたのである。
その後、藩営商船団は三島方改革により黒砂糖運送を以て組織され、「運漕ノ船々数十隻造船ノ資金ヲ貸シ三島用船ト唱」とあり、薩摩藩財源の中核である黒砂糖専売の運送を担うことになった(「海老原清熙家記抄」)。実際には黒砂糖運送を中心としながら、非常事態には兵粮・弾薬運送の役割を担ったことが知られる。
前之浜、指宿、山川、久志、坊、加世田、川内、阿久根、出水、波見、柏原、日州赤江等ヘ大船二十三反帆之船ヲ頭トして五反帆等之中船多数新作シ、平常南諸島之砂糖運輸之為メ使用シテ、非常之節ハ訣船ヲ以テ、粮米弾薬等運搬ノ為メニ備置ケリ、
大坂への米積船に端を発した海運は、調所広郷の黒砂糖専売制度整備に伴う有益な輸送方法として拡大し、この藩御用船としての雇船の建造を領内各港の商人が担っていった。それまで薩摩藩が藩内のすべての貿易を独占していたために、豪商は存在しなかったが、ここに至って船持ち商人(海商)が誕生する契機となったのである。
新造船建造には特別な貸付をし、返済についても、「返上方之儀は島方一上下何程宛と五六ヶ年目には皆納相成仕向」とあるように、上方・奄美間の黒糖運輸に従事させ、五、六年ほどで返済できるよう取り計らう旨の政策を打ち出している(『薩藩天保度以後財政改革顚末書』)。
その成果について、天保6年(1835)閏7月10日付浜村孫兵衛宛調所笑左衛門書状に、
「只今ニてハ船造立願、余多ニて困リ入候位ニ御座候、是まてハ何様才足(催促)いたしても皆断勝之処、右様ウルサクほと願人ニて込入申候、是ニて物毎(物事)うらはら成たる試験ニ御座候、皆以御蔭ニて候」とあり、この施策が最初は思惑通りにはいかなかったものの、後には調所広郷の意図したように順調に展開したことが知られる。
このように、天保年間(1830〜44)から幕末にかけての活発な海運は、藩の海商への手厚い保護のもとに展開されたものであり、海商の活発な活動が黒糖などの専売制を支え、藩政改革の一翼を担ったといえる。
更新:12月10日 00:05