2017年06月04日 公開
2024年10月07日 更新
伊作城本丸(亀丸城)跡碑
島津四兄弟の末弟、家久はこの地で生まれたという。
天正15年6月5日(1587年7月10日)、島津家久が没しました。島津四兄弟の末弟で、祖父から「軍法戦術に妙を得たり」と評された戦上手として知られます。
天文6年(1547)に島津貴久の4男として生まれた家久は、永禄4年(1561)の肝付氏との廻坂の合戦に15歳で初陣し、敵将を討ち取る殊勲を挙げました。
天正3年(1575)、29歳の時に伊勢参詣も兼ねて上洛。その途中、八女のあたりで無理難題を言う関守を供の者がぶん殴って黙らせ、また播磨の室津では雑言を吐いた船子を供の者がまたもぶん殴り、これを家久は「よき振舞い」と褒めています。薩摩隼人らしい何とも荒っぽい主従です。上洛した家久一行は連歌師・里村紹巴を介して公家や商人など、畿内の有力者と交流し、たまたま大坂から帰ってきた織田信長軍を見物。きらびやかな軍勢に囲まれた信長を見ると、馬上で居眠りしていたと家久は記録しています。その後、明智光秀から坂本城に招かれ、また大和の多聞山城などを訪れました。
家久がその勇名を轟かせるのは、何といっても沖田畷の合戦です。天正12年(1584)、「肥前の熊」の異名をもつ龍造寺隆信が島原半島に侵攻、日野江城主の有馬晴信から薩摩の島津氏に救援要請が届きました。しかし、龍造寺勢は5万を称する大軍。島津は派遣できてもせいぜい3000。重臣たちからは慎重論も出ますが、当主の島津義久は「武士は義を第一に重んじる。遥か島原より我らを頼ってきた有馬の要請を断ってはならぬし、合戦の勝敗は必ずしも兵の多寡で計るべきではあるまい」と決断。そこで「遠征のお役目、それがしに」と買って出たのが家久でした。
家久率いる島津軍3000は3月13日に開戦直前の日野江城に到着、有馬勢は歓呼をもってこれを迎えます。しかし有馬・島津両軍合わせても5000足らず。敵の10分の1でした。家久は決戦の地に、沼沢の多い湿地帯・沖田畷を選んで本陣を置きます。泥田に囲まれた地に縦深陣地を築き、本陣と左右に軍を配置。24日、これを望見した龍造寺隆信は「何という貧弱な陣か」とあざ笑って軍を三つに分け、自らは本隊を率いて中央の本陣目がけて一気に攻めかかりました。
しかし、これこそ家久の狙い通りでした。龍造寺の左右の軍をそれぞれ本陣の左右が支える中で、龍造寺隆信自身を中央深くに攻め込ませ、突如そのわき腹を左右から伏兵に襲わせたのです。島津のお家芸「釣り野伏せ」でした。
龍造寺本隊は大混乱に陥りますが、泥田のため思うように進退できず、混戦の中で隆信は討たれるのです。10倍の敵を破り、しかも大名首を取った鮮やかな勝利でした。この勝利により、島津の勢力は九州において抜きん出ることになります。
その後、北上を続ける島津を前に、大友宗麟が羽柴秀吉に救援を要請、これを受けて秀吉の九州征伐が始まります。まず秀吉は大友への援軍として、仙石秀久、長宗我部元親、十河存保ら四国勢を先遣部隊として送りますが、これを迎撃したのが家久でした。敵を戸次川に誘い込み、鮮やかに釣り野伏せを決め、十河存保、長宗我部信親らを討ち取り、先遣部隊を壊滅させたのです。
しかし衆寡敵せず、島津が秀吉に降伏すると、その直後の天正15年(1587)、家久は佐土原城で没しました。享年41。病死とも毒殺ともいわれます。この家久の息子が、関ケ原の折、伯父の島津義弘を撤退させるため、烏頭坂で「捨てがまり」戦法をとって追撃する井伊勢を撃退し、自らも討死した島津豊久でした。
もし、関ケ原に家久がいれば、どうなっていたでしょう。
更新:11月21日 00:05