2017年05月04日 公開
2019年04月24日 更新
元亀3年5月4日(1572年6月14日)、南九州で木崎原の戦いが起こりました。島津義弘が自軍の10倍近い伊東祐安を破ったもので、「九州の桶狭間」と呼ばれます。
元亀2年(1571)、薩摩の前当主・島津貴久が没すると、これを好機と見た日向の伊東義祐が侵攻を策しました。義祐は事前に人吉の相良義陽に援軍派遣を要請した上で、薩摩・大隅・日向の境にあたる真幸院に出兵します。
元亀3年5月4日、伊東祐安率いる3000の伊東軍は、半数の1500を島津義弘の居城・飯野城の押さえとし、残る1500を義弘の妻子が籠もる加久藤城を囲みました。加久藤城の守備兵は僅か50です。知らせを受けた飯野城の島津義弘の手勢もまた、僅かに300。しかし、義弘の計略はすでに始まっていました。飯野城を発した義弘は50の兵を本地口に留めると、残りの230を率いて加久藤城に向かいます。そして二八坂に至ると、60を加久藤城の救援に向かわせ、40を南の白鳥山麓に埋伏させると、130の兵で二八坂に布陣。一方、伊東勢は加久藤城の外郭を破ると、それで城を攻略したと勘違いし、島津義弘勢の接近もあって、白鳥山へ陣を移そうとしました。加久藤城北方には、相良義陽軍500が二手に分かれて接近していましたが、あらかじめ義弘が置いていた偽の兵を大軍と見誤り、引き返してしまいます。
白鳥山方面に向かった伊東勢は、飯野城の押さえと合流して3000となりました。 しかし、あらかじめ義弘が言い含めていた白鳥権現の氏子300余名が、あたかも島津勢であるかのように鉦を鳴らし、喚声を上げたため、伊東祐安は島津の伏兵の出現と勘違いし、あわてて白鳥山から離れました。 そこを島津義弘の本隊130が突撃をかけます。とはいえ伊東勢は3000で、兵力差は歴然です。しかし、島津の突撃の鋭さは伊東勢を切り裂き、頃はよしと見ると、義弘は一転、退却して逃げ始めました。
島津勢が逃げたことで、態勢を立て直した伊東勢は追撃をかけ木崎原に至ります。これが義弘のねらいでした。突如、伊東勢の背後を、白鳥山麓に潜んでいた40の伏兵が襲い、混乱を誘うと、続いて加久藤城の援軍に向かった兵60と、加久藤城の兵50が伊東勢に襲いかかかります。さらに逃げていた義弘の島津勢が反転し、動揺する伊東勢を突き崩して、伊東勢の伊東祐信を討ち取りました。これぞ島津が得意とする「釣り野伏」です。 この思わぬ島津の反撃に伊東勢は大混乱に陥り、退却を始めますが、そこを本地口に留まっていた50の島津兵がさらに追い討ちをかけ、伊東勢は敗走しました。
10倍の敵を破るという常識を覆す戦いをやってのけた島津義弘。もちろん味方の死傷者は8割に及ぶという満身創痍の勝利ではありましたが、島津の勢威を九州一円に示し、三州回復、さらに九州制覇への島津四兄弟の大きな一歩となるのです。
更新:11月21日 00:05