2017年05月05日 公開
2019年04月24日 更新
伊作城本丸(亀丸城)跡碑。島津四兄弟もこの地で生まれたという。
永正11年5月5日(1514年5月28日)、島津貴久が生まれました。戦国に活躍した島津四兄弟の父で、父親の島津忠良(日新斎)とともに、島津中興の祖として知られます。
貴久は永正11年、薩摩島津氏の分家にあたる伊作(いざく)島津家の当主・島津忠良の長男として、田布施城(亀ヶ城)に生まれました。幼名、虎寿丸。通称、又三郎、三郎左衛門尉。貴久は幼少より利発、武将としての器量も高いと評され、大永6年(1526)、13歳の時に、薩摩島津家の宗家である14代島津勝久の養子となって、家督と守護職を相続します。 それに伴って、勝久は伊作に隠居し、貴久が歴代の守護館でもあった清水城に入りました。
ところが一族内で薩州島津家の実久が不満を抱き、それに同調する国衆が叛乱を起こします。貴久の実父・忠良は鎮定に努めますが、貴久が鹿児島を追われて、田布施城に撤退を余儀なくされ、勝久との養子縁組も解消されてしまいました。
これに対し貴久は天文2年(1533)、反攻に転じ、実久方の南郷城攻略で初陣を飾ります。20歳の時でした。天文5年(1536)には父親の忠良とともに実久方の伊集院城(壱宇治城)を抜き、翌年、鹿児島に進撃して再び清水城を押さえます。
さらに天文7年(1538)から翌年にかけて、実久方の最大拠点である加世田城(別府城)を落とし、紫原の合戦にも勝利して、島津実方を豊後へと追い払いました。 ここに貴久は、中・南薩摩の敵対勢力を一掃して薩摩半島を平定、鹿児島に新たに築いた内城に入り、26歳にして名実ともに国主となります。
しかし、貴久の目標は薩摩統一に留まるものではありません。その悲願は、かつて島津氏が所領としていた三州(薩摩、大隅、日向)を回復することにありました。 貴久は領国経営に努め、貿易を盛んに行なって国力を増強させる一方、大隅への進攻の機を虎視眈々と窺います。
天文23年(1554)、加治木城を大隅の蒲生範清、祁答院(けどういん)良重らが襲い、貴久ら島津一族が救援に向かいます。貴久は祁答院氏の岩剣城を攻めることで、加治木城の攻囲を解かせる狙いでした。 貴久らが岩剣城を攻めると案の定、加治木城を囲む蒲生、祁答院らの軍勢が押し寄せ、合戦となります。島津方は敵の有力武将を含む50人ほどを討ち取り勝利しました。この戦いで貴久の長男・義久、次男・義弘が初陣を果たしています。
貴久は手を緩めず翌弘治元年(1555)、蒲生氏の帖佐平佐城を落とし、翌年には同じく蒲生氏の松坂城を攻略、蒲生範清を追って西大隅を手中にしました。 さらに北薩、大隅へ出兵を続ける永禄9年(1566)、53歳で長男の義久に家督を譲って隠居します。
貴久は悲願の三州回復にまでは手が届きませんでしたが、その足固めを着実に行ない、4人の息子たちによって悲願達成どころか、九州制覇に至るまで勢力を伸張します。
また貴久で特筆されるべきものに、種子島に伝来した鉄砲を、数年後には史書上初めて合戦で使用している点があげられます。新しい武器でも役に立つと判断すれば、ためらわず用いる合理性。これも息子たちに受け継がれていきました。
元亀2年(1571)、貴久は肝付氏との戦いの最中に、加世田で没しました。享年57。息子たちによって三州回復が果たされるのは、それから5年後の天正4年(1576)のことです。
更新:11月21日 00:05