↑伊作城本丸(亀丸城)跡碑。島津義久・義弘もこの地で生まれたという。
島津氏の肥後進出は、九州統一への大きな一歩となった。豊薩和平を成立させ、龍造寺氏を打ち破り、島津氏の勢いはますます拡大していく。その一方で、筑後支配をめぐる大友氏との対立といった問題も浮上する。書籍『島津氏』(PHP新書)より解説する。
※本稿は、新名一仁, 徳永和喜著『島津氏 鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです
大友宗麟は南部3か国を除く九州6か国の守護職と九州探題を兼帯し、中国地方の毛利氏の九州進出を阻みつつ、北部九州諸勢力を従属下に置いていた。しかし、高城・耳川合戦での大敗により、各地で大友氏からの離反が進んでいく。
特に肥前佐賀(佐賀県佐賀市)の龍造寺隆信は、高城・耳川合戦以前から島津氏との連携を図っており、筑後・肥後への進出を開始していった。大友氏の緩やかな支配下にあった肥後国でも、隈本(熊本県熊本市)の城氏、宇土(同県宇土市)の名和氏らが島津氏への従属を申し出、島津氏の進出を期待するようになる。
義久・義弘兄弟自身はあくまでも"三州統一"が父祖以来の目標であり、肥後以北への進出は想定していなかったが、重臣たちは肥後国衆からの支援要請に応えるべきとの考えであり、否応なしに北部九州情勢に巻き込まれていく。
隈本・宇土への支援のためには、肥後南部の八代・葦北・球磨三郡を支配する相良義陽を従属させることが不可欠であったが、相良氏はこれを嫌った。また、大友氏の日向進攻時に連携を図った龍造寺隆信も、肥後北部の有力国衆を次々と従属下に置き、城氏・名和氏にも島津氏との手切れを求めるに至り、龍造寺氏との対決も不可避な状況となる。
折しも畿内制圧を実現した織田信長は、毛利輝元との全面抗争に備え、大友氏と島津氏の和睦仲介に乗り出す。信長は近衛前久に命じて、その家司伊勢貞知を九州に派遣し、交渉にあたらせた。
信長は大友氏が毛利氏へ圧力をかけることを期待しており、その背後を脅かす龍造寺氏と筑前の秋月種実(本拠は現在の福岡県朝倉市にある古処山城)への牽制を島津氏に期待した。
義久は島津氏の日向支配とともに、相良氏攻撃を認めるよう大友氏に迫ったようであり、天正9年(1581)8月、両氏の和睦つまり「豊薩和平」が成立する。これにより島津氏による肥後進攻が開始される。
天正9年8月、義久ら四兄弟そろって肥後に進攻した島津勢は、相良氏の支城水俣城(熊本県水俣市)を包囲する。相良義陽は龍造寺隆信に救援を求めるが間に合わず、義陽は島津氏に降伏し、その直後に阿蘇大宮司家との戦いで討死する。相良領のうち、八代郡と葦北郡は島津領となり、球磨郡のみが義陽の遺児忠房に安堵されている。
八代古麓城(熊本県八代市)が島津氏による肥後支配の拠点となり、阿蘇大宮司家の家宰甲斐宗運と、肥後北部支配を固めつつ肥前南部の島原半島へと版図を広げる龍造寺氏と対峙することとなった。
島原半島には日野江城(長崎県南島原市)を本拠とするキリシタン大名有馬晴信(当時は鎮貴)が龍造寺勢の圧力を受けており、島津氏に従属して救援を求めていた。
天正10年(1582)、義久は義弘に飯野から八代への移封を打診するが、田数不足を理由に断られている。肥後への積極進出に義弘は消極的であった。代わりに龍造寺氏との決戦を望んだのは、末弟家久である。
天正12年(1584)3月、龍造寺氏に対抗するため、義久みずから肥後佐敷(熊本県葦北郡芦北町)に出陣し、家久は兵3000を率いて島原半島に出陣する。家久の目的は、龍造寺方の島原浜の城(長崎県島原市)攻略にあったが、龍造寺隆信はみずから2万5000ともいわれる大軍を率いて後詰に出陣し、3月24日に合戦となった(沖田畷の戦い、島原合戦)。圧倒的劣勢であったが、島津勢は隆信本人を討ち取り、龍造寺勢は総崩れとなった。
この勝利により、九州では大友・龍造寺・島津の三氏鼎立の状況が崩れ、島津一強となる。龍造寺氏と連携していた筑前の秋月種実は、この戦いの前から"大友氏包囲網"構築のため龍造寺氏と島津氏の和睦仲介に動いていたが、龍造寺敗戦を受けて再度和睦仲介を義久に働きかける。
同年6月、義弘らは肥後北部の龍造寺方国衆討伐を決定するが、義久は秋月氏の提案を飲み龍造寺氏との和平を受諾するよう説得する。9月、義弘は大軍を率いて肥後北部に出陣し、同月末には龍造寺氏も拠点としていた海陸の要衝高瀬(熊本県玉名市高瀬)を制圧する。
ここで、龍造寺政家・鍋島信生(後の直茂)・秋月種実から島津氏に従属する旨の起請文が提出され、義弘らはこれを受け入れる。これにより肥薩和平が成立した。
この頃義久は、対外的に6か国を支配したとアピールしており、これは薩隅日3か国に加えて、豊薩和平によって譲られた肥後国と、龍造寺氏支配圏だった肥前・筑後両国を指している。
龍造寺政家が島津氏との和平を望んだのは、大友側の攻勢を受けていたからであった。筑前の大友氏重臣戸次道雪・高橋紹運は、豊後勢とともに筑後に進攻し、龍造寺氏の拠点柳川城(福岡県柳川市)に迫っていた。
天正12年(1584)9月、戸次道雪らは、高瀬の義弘に対して共闘を持ちかけるが、肥薩和平を受諾した義弘は逆に筑後からの撤退を道雪に要請して、みずからも撤退する。
それでも戸次道雪らは筑後に滞陣しつづけたため、龍造寺氏は島津氏に対処を求める。大友氏は筑後を自らの分国と認識しており、龍造寺氏の従属により筑後はみずからの分国に入ったと認識する島津氏との間に見解の相違が生じたのである。島津氏は豊薩和平と肥薩和平の矛盾に苦しむことになった。
同年12月、鹿児島での重臣による談合では、大友側が撤退要請に応じない以上、豊後に進攻すべしとの強硬論が浮上している。
さらに、天正13年2月には、将軍足利義昭・毛利輝元らの使者が鹿児島を訪れ、毛利・龍造寺・島津で"大友氏包囲網"を敷くことを提案している。これが豊後進攻論を後押ししたとみられる。
筑後情勢への対応と同時に問題となったのが、義久の体調不良と後継問題であった。天正12年6月、義久は重臣に後継問題について諮問する。翌天正13年2月、重臣らは義弘を後継とすることを決定し、義久は義弘に「名代」就任を打診する。これは、「国家之儀御裁判」にあたるポジションで、同時に八代移封を求めている。
島津氏の分国が薩隅日3か国から肥後以北を含んだ6か国に拡大するなか、高度な政治的判断を義久と義弘で分有しようとの計画だったようである。義弘は当初断っていたようであるが、同年4月に受諾する。これ以後、義久・義弘は「両殿」と呼ばれるようになる。
更新:11月05日 00:05