木崎原の戦いや耳川の戦い、朝鮮出兵時の泗川の戦いなど、数々の戦場で活躍し、関ケ原の戦いでの敵中突破でも知られる島津四兄弟の一人、義弘。猛将というイメージが強いだろうが、それだけではなく、愛妻家の面も持っていたことが、遺された手紙から窺える。
例えば、天正19年(1591)3月に、滞在中の京都から妻に宛てた手紙には、次のようにある。
「猶々(なおなお)、今夜もそなたを夢にまさしくミまいらせ候て、たゞいまけんざん候やうにこそ候つれ。又よきたよりの折りふしハ、さいさい同事なれども、ふミにて申しのぼせ候ハゞ、うれしかるべく候」
(今夜もそなたを夢に見て、たった今会ったような気がする。良い報せがあれば、いつも同じことでもいいから、手紙を送ってくれれば嬉しく思う)
義弘の妻は3人いるが、この手紙の宛先は宰相殿と呼ばれた女性。跡継ぎとされた久保や、初代薩摩藩主となる忠恒(家久と改名)の生母である。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの時は、島津義久の娘・亀寿とともに、宰相殿は大坂城下で西軍の人質となったが、薩摩へと戻る途上の義弘によって救出されている。
ちなみに、義弘の他の2人の妻は、一門衆の北郷忠孝の娘と肥後の大名・相良晴広の娘で、ともに政略結婚だったと思われる。
宰相殿は、園田清左衛門という武士の娘で、家柄は3人の妻の中で最も低い。江戸時代に書かれた『盛香集』によると、義弘が鷹狩りに出かけた際、川で大根を洗っている宰相殿(当時は「あかし」)を見かけて、その大根を所望した。すると、宰相殿は菅笠を脱ぎ、頭に触れていない側をへこませて、そこに大根を載せて差し出した。その気遣いに感じ入って、義弘は宰相殿に惚れたのだという。
恋愛結婚であったことも、義弘が宰相殿を深く愛した理由だったのかもしれない。
更新:11月10日 00:05