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猛将・島津義弘は愛妻家だった!

2018年03月09日 公開
2024年10月07日 更新

『歴史街道』編集部

島津義弘
 

愛妻家ぶりが滲み出る島津義弘の手紙

木崎原の戦いや耳川の戦い、朝鮮出兵時の泗川の戦いなど、数々の戦場で活躍し、関ケ原の戦いでの敵中突破でも知られる島津四兄弟の一人、義弘。猛将というイメージが強いだろうが、それだけではなく、愛妻家の面も持っていたことが、遺された手紙から窺える。

例えば、天正19年(1591)3月に、滞在中の京都から妻に宛てた手紙には、次のようにある。

「猶々(なおなお)、今夜もそなたを夢にまさしくミまいらせ候て、たゞいまけんざん候やうにこそ候つれ。又よきたよりの折りふしハ、さいさい同事なれども、ふミにて申しのぼせ候ハゞ、うれしかるべく候」

(今夜もそなたを夢に見て、たった今会ったような気がする。良い報せがあれば、いつも同じことでもいいから、手紙を送ってくれれば嬉しく思う)

義弘の妻は3人いるが、この手紙の宛先は宰相殿と呼ばれた女性。跡継ぎとされた久保や、初代薩摩藩主となる忠恒(家久と改名)の生母である。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの時は、島津義久の娘・亀寿とともに、宰相殿は大坂城下で西軍の人質となったが、薩摩へと戻る途上の義弘によって救出されている。

ちなみに、義弘の他の2人の妻は、一門衆の北郷忠孝の娘と肥後の大名・相良晴広の娘で、ともに政略結婚だったと思われる。

宰相殿は、園田清左衛門という武士の娘で、家柄は3人の妻の中で最も低い。江戸時代に書かれた『盛香集』によると、義弘が鷹狩りに出かけた際、川で大根を洗っている宰相殿(当時は「あかし」)を見かけて、その大根を所望した。すると、宰相殿は菅笠を脱ぎ、頭に触れていない側をへこませて、そこに大根を載せて差し出した。その気遣いに感じ入って、義弘は宰相殿に惚れたのだという。

恋愛結婚であったことも、義弘が宰相殿を深く愛した理由だったのかもしれない。

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山内昌之(歴史学者/東京大学名誉教授)