2017年07月23日 公開
2019年07月02日 更新
天文4年7月23日(1535年8月21日)、島津義弘が生まれました。島津四兄弟の次男で、関ケ原の敵中突破で知られます。
島津義弘は薩摩の守護・島津貴久の次男に生まれます。兄の義久は2歳年上、弟の歳久は2歳年下、末弟の家久は12歳年下でした。義弘は20歳の初陣・岩剣城の戦い以来、戦いに明け暮れる一生でしたが、生涯を貫いていたのは「兄・義久に代わって、いつでも戦場で斃れる」という姿勢でした。
四兄弟でも特に義久と義弘は、幼い頃に祖父・忠良(日新斎)から受けた影響が大きいといわれます。忠良は長男・義久には総領としての心得を説き、次男・義弘には軍司令官としての教育を施しました。義弘の「兄のために」という思いは、そうした教育も色濃く反映されていたのでしょう。忠良は「義久は三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たる材徳自ら備わり、義弘は勇武英略をもって傑出す」と孫たちを称えています。
義久が家督を継いだ元亀3年(1572)、義弘は木崎原の戦いで伊東義祐の大軍を破り、島津の南九州制覇を大きく前進させました。また三州統一を果たすと、前に立ちはだかる巨人・豊後の大友宗麟を天正6年(1578)、四兄弟が総力を挙げて耳川の合戦で破って、九州の覇権に王手をかけます。島津軍は豊臣秀吉の九州攻めの先鋒軍をも破り、九州統一目前まで迫りますが、天正15年(1587)、秀吉の大軍の前に帰順しました。
その後、秀吉の命で朝鮮出兵に参加した義弘は、泗川(サチョン)において一説に明・朝鮮連合軍20万を7000で迎撃、得意の戦法「釣り野伏(のぶせ)」でこれを破り、鬼石曼子(グイシーマンズ)と敵から怖れられました。さらに露梁津(ノリャンジン)の海戦では、朝鮮水軍の名将・李舜臣を戦死させています。
関ケ原、島津義弘の陣跡
島津の武名を国内外にまで示した義弘でしたが、秀吉の没後、家中に内紛が起こり、それが終息して上洛したところを、徳川家康と石田三成の両陣営から誘われ、結果的に石田方の西軍に与することになりました。しかし兄の義久は「静観せよ」と命じて兵を出さず、義弘のもとに集まった手勢は甥の豊久と自発的に馳せ参じた者を含め、僅か1500しかありません。義弘はこれで関ケ原に臨むことになります。
慶長5年(1600)8月、石田三成の差配で味方を敵中に置き去りにされかけた義弘は、三成に不信感を抱きました。さらに決戦前夜の9月14日、赤坂に到着した家康に夜襲をかける提案を三成があっさり却下したことで、義弘は肚を固めます。「島津は島津の戦をする」と。 翌9月15日、関ケ原本戦。戦いが始まっても島津隊は微塵も動かず、たまりかねた三成が説得しようとすると「今日の戦はそれぞれ己の戦いをすべきである。貴公もそう心得られるべし」と豊久が応え、義弘は黙って頷きました。
やがて小早川秀秋の寝返りで、三成はじめ西軍は潰走。襲ってくる敵と戦ううちに島津隊も300に減っていました。義弘は迫り来る敵の大軍を睨みながら問います。「敵はいず方が猛勢か」。家臣が「東よりの敵、もってのほか猛勢」。すると義弘は「その猛勢の中へ駆けよ。鋒矢(ほうし)の陣形を取れ。薩摩武士の意地を見せい!」。島津隊はあえて最も勢いのある強敵に突撃し、これを粉砕することで、死中に活を見出そうとしたのです。義弘の意図は同じ薩摩人には以心伝心で伝わり、義弘を中心に据え、黒い怒濤と化して敵中を突破していきます。これを井伊直政隊が執拗に追いますが、豊久が「捨てがまり」を仕掛け、自らが盾となって義弘を脱出させました。
10月3日、数々の危地を乗り越え、大坂で人質となっていた夫人をも救出して薩摩に帰還した義弘を、迎えた兄・義久はこう言ったといいます。
「大敵の包囲を打ち破り、無事生還す。あまつさえ人質児女子を連れ帰る。その勇武智略は、凡将の及ぶところにあらず」
義弘が没したのは元和5年(1619)のことです。享年85。
更新:12月04日 00:05