伊作城本丸(亀丸城)跡碑。島津四兄弟もこの地で生まれたという。
慶長16年1月21日(1611年3月5日)、島津義久が没しました。戦国の島津4兄弟の長男で、島津氏16代当主として九州制覇を目指したことで知られます。
島津義久は天文2年(1533)、島津氏15代当主・貴久の嫡男として伊作城(現在の鹿児島県日置市)に生まれました。幼名、虎寿丸。通称は又三郎。2歳下の弟に義弘、4歳下に歳久と4弟の家久がいます。 義久は幼い頃から温厚な性格で、弟たちの闊達さをよく褒め、常に落ち着いて物事を観察する思慮深さがありました。弟たちはそんな長兄を慕い、兄弟仲は良かったといいます。この4兄弟を祖父日新斎(忠良)がこう評しました。
「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」
まさに、戦国最強ともいうべき4兄弟です。
天文23年(1554)、22歳の義久は弟・義弘とともに岩剣城攻めで初陣を果たしました。島津氏は鎌倉幕府より、薩摩・大隈・日向三州の守護に任命されて、関東より下向した家柄でしたが、当時は国人衆が従わずに割拠する状況でした。薩摩・大隈国境の岩剣城は蒲生氏の城ですが、2ヵ月かけて攻略。さらに島津方は蒲生氏の支城を次々と落とし、弘治3年(1557)に蒲生氏を駆逐します。続いて北薩摩の国人衆・菱刈氏を、数々の戦いの末に永禄12年(1569)に降して、薩摩国全域を掌握。この間、永禄9年(1566)に父・貴久の隠居により、義久が16代当主となっています。
元亀3年(1572)、日向国の伊東義祐が、重臣・伊東祐安を主将にして3000で島津領に侵攻すると、義久の弟・義弘が僅か300の手勢で迎え撃ち、木崎原で敵を打ち破りました。「九州の桶狭間」と呼ばれる木崎原の戦いで、伊東勢は壊滅的打撃を受けます。一方、大隈方面では肝付氏との戦いが続いていましたが、天正2年(1574)に肝付氏を降して大隈国を獲得。 さらに天正5年(1577)には、日向伊東氏の家臣らが内応したこともあって、伊東義祐は大友宗麟を頼って豊後へと落ち、ここに義久は島津氏の悲願であった薩摩・大隈・日向の三州統一を再現してのけました。時に義久、45歳。
しかし伊東義祐が大友宗麟を頼ったことで、義久は九州の最大勢力・大友氏との対決を余儀なくされます。天正6年(1578)、宗麟は日向に侵攻すると、田原紹忍に4万3000の大軍で南進させました。この事態に義久は弟たちとともに2万の軍勢で出陣。大友軍が末弟・家久の拠る高城を囲むと、高城川を挟んで対峙します。そして数に勝る敵が川を渡って攻め懸けてくると、退くと見せて誘き寄せ、伏兵をもって痛撃を与えました。島津のお家芸「釣り野伏」です。この耳川の合戦によって大友軍は壊滅的打撃を受け、以後、宗麟は衰退の一途を辿ることになりました。後にこの合戦の詳細を聞いた徳川家康は、「おそろしき謀也」(『盛香集』)と言って、義久の采配を賞賛したといわれます。
しかし耳川の合戦で大友氏が衰えると、今度は肥前の龍造寺隆信が勢力を伸張し、肥後国をめぐって島津と対立します。やがて日野江城主の有馬晴信が義久に内通すると、龍造寺軍がこれを攻め、有馬は義久に救援を要請。八代まで進出した義久は天正12年(1584)、末弟・家久を援軍に送りました。龍造寺隆信自ら率いる軍勢は1万8000(一説に6万とも)。対する島津・有馬連合軍8000は、森岳城(島原城)付近の沖田畷で迎え撃ちます。数に勝る龍造寺軍は3方向から攻め懸かり、島津家久は挑発しつつ後退して敵を湿地に誘導、そこを伏兵に襲わせました。またも「釣り野伏」です。これによって龍造寺軍は退路を断たれ、総大将の隆信をはじめ、主だった武将の多くが討死する大敗北を喫します。そしてこの敗戦によって龍造寺家は衰退し、それまで拮抗していた大友、龍造寺の弱体化から、義久の目は九州統一に向けられることになりました。
この事態に、大友宗麟は大坂の豊臣秀吉に救援を求め、これを快諾した秀吉から義久のもとへ、私戦を禁じる書状が届きます。しかし、義久はこれを無視。源頼朝に連なる名門島津氏が、素性も定かでない秀吉の命令に従う謂われはないと判断したともいわれます。天正14年(1586)、義久は八代に本陣を置くと、筑前攻めを開始。多くの国人は島津になびきますが、岩屋城の高橋紹運、立花城の立花宗茂、宝満山城の高橋統増が頑強に抵抗し、高橋紹運は寡兵で時間を稼いだ上で玉砕。直後に豊臣軍の先鋒が九州に入ります。義久は義弘率いる3万と、家久率いる1万に2方向から豊後攻略を命じ、家久は戸次川で仙石秀久らの豊臣軍先鋒を「釣り野伏」で壊滅させました。しかし天正15年(1587)に豊臣軍10万が到着すると、さすがに勝負にならず、川内の泰平寺で義久は降伏しました。
以後、秀吉は義弘に目をかけ、義久には薩摩国、義弘には大隅国が与えられ、豊臣との折衝役は義弘が担うことになります。兄弟を離間させる策であったのでしょう。朝鮮出兵で義弘は奮戦し、文禄3年(1594)には義久と義弘の領国が交換されて、義弘が事実上の当主となります。しかし、国許での実権は依然、義久が掌握し、関ヶ原合戦の折も、義弘は西軍に参加しますが、義久は静観を保ちました。この義久の動じぬ姿勢は、徳川家康にとっても相当不気味だったのかもしれません。島津は西軍だったにもかかわらず、本領を安堵されました。
慶長9年(1604)、大隈国の国分城に移った義久は、慶長16年(1611)に城内で没しました。享年79。島津の勢威を多いに伸張し、また盛名を守り抜いた生涯といえるのかもしれません。
更新:11月21日 00:05