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ビル・ゲイツは中退、マルクスは浪費三昧!?偉人たちの「20歳」が波乱万丈すぎる

2026年01月09日 公開

鷹橋 忍(作家)

世界の偉人たちは20歳の頃、どんな風に過ごしていたのか。意外な素顔を紹介する

成人の日、多くの自治体で20歳を迎える若者を祝福するイベントが催されます。成人年齢は2022年に18歳に引き下げられましたが、やはり「20歳」は人生の大きな区切りとして意識されているといえそうです。
さて、世界の英雄や偉人、秀でた能力で名を残した人たちは、20歳の頃、何を考え、どんなことをしていたのでしょうか。

早くも大器の片鱗を覗かせる人がいる一方で、不遇で冴えない時代を過ごしていた人も...。それぞれの「20歳」を紹介します。

※本稿は、『歴史街道』2020年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

【ホレーショ・ネルソン】若くして軍艦の艦長に。イギリス救国の英雄

ホレーショ・ネルソンは、イギリス最大の英雄といわれる海軍提督だ。
ブリッグ艦バジャー号の海尉に昇進し、フリゲート艦ヒンチンブルック号の艦長となったのは、ネルソンがまだ20歳の頃であった。

ネルソン最大の栄光は「トラファルガーの戦い」である。イギリス海軍が敗れれば、ナポレオン軍の本土上陸を許してしまう。まさに、国家の命運を握る海戦に、イギリス側は47歳となっていたネルソン提督を送り込んだ。5時間の激闘のすえ、フランス・スペイン連合艦隊を撃破した。

しかし、ネルソンはイギリス国民と勝利を分かち合うことはできなかった。戦闘中に銃弾を受け、戦死してしまったからだ。

救国の英雄となったネルソンを称え、ロンドンのウェストミンスター広場は、「トラファルガー広場」と名付けられ、ネルソンの銅像が、今もイギリスを守るように立っている。

 

【始皇帝】宰相・呂不韋を排斥へ。約2000年続く皇帝支配体制を作りあげる

中国初の統一国家を作りあげた始皇帝は、名を政(正)という。

当時の中国は、「春秋戦国時代」と呼ばれる戦乱の世で、秦・魏・韓・趙・楚・燕・斉の7国が争いを繰り広げていた。
始皇帝は、もともとは秦の王で、12歳で即位した。とはいっても、実権は相国(宰相)の呂不韋(りょふい)が握っていた。

紀元前239年、始皇帝が20歳の頃も呂不韋は健在で、さらに、呂不韋が後宮に送り込んだ偽の宦官、嫪(ろう)あいが勢力を誇っていた。この頃にはもう始皇帝は、呂不韋らの排斥を画策していたと思われる。

翌年、嫪あいが反乱を起こす(あるいは、反乱を計画しているとの密告を受ける)と、始皇帝はこれを鎮圧。さらに、嫪あいの背後にいた呂不韋を追放し、親政を開始したのである。

その後始皇帝は、魏・韓・趙・楚・燕・斉の6ヶ国を次々と滅ぼし、紀元前221年に中国を統一、約2000年も存続する皇帝支配体制を作りあげたのだ。

 

【ビル・ゲイツ】ハーバード大学を中退し、友人とマイクロソフト社を創業

マイクロソフト社の創設者の一人であるビル・ゲイツは、13歳のときからコンピュータのプログラム遊びをしていたという。

20歳のとき、ビルはハーバード大学を中退し、友人のポール・アレンとマイクロソフト社を創業した。

当時のコンピュータは高価で、ごく一部の人が使うものでしかなかった。しかし彼らの信念は、「パーソナルコンピュータは、いずれ全ての職場の机の上、および全ての家庭において有益な道具になる」というものだった。
現在、彼らの信念は現実のものになった。20歳のビルが信じていたものは、間違っていなかったのだ。

 

【葛飾北斎】プロとして活躍しながらも、自分らしい画風を模索

葛飾北斎は、70年におよぶ長い絵師人生で、画風を次々と変転させながら、数多くの作品を残した。代表作『冨嶽三十六景』はあまりにも有名だ。

北斎は1778年に、役者絵の大家・勝川春章に入門し、翌年、19歳でプロデビューを果たしている。雅号は「勝川春朗」であった。

20歳の頃は、勝川派の絵師として、役者絵や美人画、黄表紙の挿絵などを描いて活躍していた。ただ、当時は師匠の様式をなぞった画風で、いわゆる北斎らしい絵ではなかった。
天才浮世絵師と謳われる北斎だが、デビュー当時はまだ独自の画風を模索していた時代だった。

 

【ユリウス・カエサル】身の危険を冒しても妻との離別を拒否

ローマ最大の英雄といわれるユリウス・カエサルだが、20歳の頃はローマを追われ、亡命生活を送っていた。
当時のローマは、民衆派と閥族派の2つの政治勢力の間で争いが起きていた。カエサルは民衆派のキンナの娘コルネリアを妻にしていたことなどにより、民衆派と見られていた。

やがて、閥族派のスッラが勝利し、独裁官に就任する。スッラはカエサルに、コルネリアとの離別を促したが、カエサルはこの命令を拒否。ローマを出て、属州アシアの総督の幕僚の一人となる。

スッラの命令を拒むことはその身の危険をはらんでいた。しかし断固としてはねのけたのである。
ローマ最大の英雄は、発展途上である20歳の頃から、英雄の片鱗を覗かせていたようだ。

 

【司馬遷】父親に命じられた20歳の大旅行が、『史記』を不朽の名作に

『史記』の著者として知られる司馬遷は、20歳の頃に、中国各地を漫遊する大旅行に出ている。この2〜3年にもおよぶ大旅行は、通史の編纂を夢見る父・司馬談の命によるものであった。

司馬談は紀元前110年、息子に通史の編纂を託して亡くなった。司馬遷は、父の意思を受け継いで、その仕事に着手する。

紀元前99年に、司馬遷の言論が当時の皇帝であった武帝の怒りに触れ、宮刑(去勢する刑罰)に処せられるという苦痛を受けることもあった。
しかし、司馬遷はその屈辱に耐え、『史記』130巻を書き上げた。中国最初の通史の誕生である。

『史記』は、各地の地勢や風俗などの記述に、圧倒的な臨場感が溢れる不朽の名作だ。20歳の大旅行で、実際に舞台となる地を訪れなければ、これほどの名作にはならなかったのではないだろうか。

 

【ナポレオン・ボナパルト】革命に関心のなかった青年が、「革命の申し子」に

1789年、ナポレオンが20歳を迎える年に、フランス革命が勃発した。

後に「革命の申し子」などと称されるが、当時は革命にさほど関心がなかった。ナポレオンにとって重要だったのは、フランスに統合された故国コルシカの独立であった。

ナポレオンは、フランス革命をコルシカの独立を取り戻すチャンスととらえ、革命を支援する。
しかし、コルシカ独立運動の指導者パオリと衝突し、一家をあげてフランス亡命を余儀なくされた。

コルシカを追われたナポレオンは、その後軍才を発揮。反革命派に押さえられていたツーロン港の奪回や、パリ王党派が起こした「ヴァンデミエールの反乱」の鎮圧などで活躍。フランス皇帝への道を駆け上がっていったのである。

 

【アン・サリヴァン】飲んだくれの父親、早くに母親と死別。不遇の少女時代から「奇跡の人」へ

アン・サリヴァンは、3歳の時に患った病気により、幼少の頃は目がほとんど見えなかった。
父親は飲んだくれで喧嘩っぱやく、子供たちに暴力を振るうこともあった。8歳で母親と死別したのちは施設で過ごした。

学校に入りたいと強く願ったサリヴァンは、14歳でパーキンス盲学校に入る。ここで手術を受けて視力を取り戻し、学校を首席で卒業した。

サリヴァンに奇跡の出会いが訪れたのは、20歳の時である。

聴覚・言語障害者の教育や慈善事業を行なっていたアレグザンダー・グレアム・ベル(電話の発明者として知られる)の紹介で、視覚と聴覚を失ったヘレン・ケラーの家庭教師に推薦されたのだ。

サリヴァンは、まともに会話をすることのできないヘレンをしつけ、言葉を教えこんだ。そんな彼女はやがて「The Miracle Worker」、「奇跡の人」と称されるようになったのである。

 

【カール・マルクス】泥酔しては乱闘騒ぎ。父親を困らせた浪費癖

カール・マルクスは、ドイツの経済学者・哲学者・革命家だ。盟友・エンゲルスとの共著『共産党宣言』の結びの言葉、「万国の労働者よ、団結せよ」は有名だ。

大学時代のマルクスは、かなりやんちゃな学生であった。17歳で入学したボン大学時代は浪費が激しく、学生組合の仲間たちと酒場に通いつめ、泥酔しては乱闘騒ぎを起こすという日々を送った。決闘で友人を傷つけ、監禁されたこともある。

父親は、環境を変える必要を感じ、ベルリン大学に転校させた。しかし、マルクスの浪費癖は収まらず、父親の送金はますます増えた。父親は「最も金持ちでも年500ターレルも使わないのに、700ターレルも自由に使う」とマルクスを批判した。

湯水のごとく送金をしてくれていた父親も、マルクスが20歳のときに亡くなった。それでも、金遣いは荒いままで、洋服の仕立代や本代の未払いを訴えられ、母親が尻ぬぐいをしたりしている。
経済学者として知られるマルクスだが、この経済感覚は、死ぬまで20歳の頃と変わらぬままだったようだ。

 

【ココ・シャネル】歌手を目指すも落選ばかり。暇つぶしでデザインした帽子が大ヒット

ココ・シャネルは、20歳の頃には針子として働くかたわら、騎兵隊将校で賑わうカフェで歌手をしていた。
カフェでは、少女のような美貌で人気を博しており、資産家の将校・エティエンヌ・バルサンに出会ったのもその頃である。

ココは歌手としての成功を求め、幾度もオーディションを受けた。しかし、落選ばかりの日々が続き、歌手の道を断念したココは、バルサンの館で暮らしはじめた。

やがて、暇つぶしのようにデザインした帽子が、館に出入りする女性たちの注目を集めるようになった。そこで、バルサンの援助を取り付け、帽子のアトリエを開業した。デザイナー、ココ・シャネルの誕生である。
20歳の出会いが、20世紀を代表するデザイナーを、ファッション界に導いたのである。

 

【三島由紀夫】自殺を考えるほどの大失恋が、のちに名作を生む

三島由紀夫は20歳のとき、手痛い失恋を経験している。相手は、友人の三谷信の妹・三谷邦子だ。

三島は、邦子側から結婚の意思を打診されていた。
だが当時、三島はまだ学生の身であり、小説家として食べていける保証が何もなかった。ましてや、8月に終戦を迎えたばかりの食糧難の時代である。家族の負担も考え、三島は学生結婚に踏み切れなかった。

邦子が銀行員と婚約したことを知ったときのショックは大きく、翌年に結婚の知らせを受けると、三島は泥酔し、自殺をも視野に入れていたようである。

創作面にも影響を与えた。後に三島の代表作となる『仮面の告白』に登場する草野園子のモデルは、邦子であるという。20歳の失恋が、名作の誕生に一役買っているのだ。

 

【トーマス・エジソン】需要がなく、不発に終わった初めての特許

20歳の頃のエジソンは、電信技師として働きつつも、発明と特許取得の準備に勤しんでいた。
だが、残念ながら、その努力は実らなかった。21歳のとき、初めて特許を取得した「投票記録機」は、需要がまったくなく、不発に終わったからだ。

エジソンはこの失敗に学び、以後の発明は需要が見込まれるものに絞った。そして、世に送り出した数々の発明品が花開き、押しも押されもせぬ発明王となった。

「その方法ではうまくいかないことがわかったのだから、失敗ではなく成功だ」というのは、エジソンのものとされる名言だ。学びを与えてくれた21歳の不発も、失敗ではなく成功だったといえるだろう。

プロフィール

鷹橋忍(たかはし・しのぶ)

作家

昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。

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