2022年04月25日 公開
14世紀、50カ国以上を旅した人物をご存知だろうか。イスラーム教徒イブン・バットゥータ。モロッコ出身の若き法官は、なぜ見知らぬ地を目指したのか。
【鷹橋忍 PROFILE】昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。著書に『城の戦国史』『滅亡から読みとく日本史』などがある。
※本稿は、『歴史街道』2022年4月号から一部抜粋・編集したものです。
大旅行家というと、ヴェネツィア生まれのマルコ・ポーロの名が、真っ先に思い浮かぶ方が多いのではないだろうか。
そのマルコ・ポーロと並び称される空前絶後の大旅行を成し遂げたのが、ベルベル系のイスラーム教徒イブン・バットゥータ(1304〜1368/69年 バトゥータとも読む)である。
彼は、全行程11万7千キロにもおよぶ、西ヨーロッパを除くユーラシアとアフリカを旅しているのだ。彼の旅程は、現在の国でいえば、50カ国以上にもまたがっており、イスラーム世界をほぼ踏破している。
14世紀に、このような途方もない大旅行が可能だったのには理由がある。
イスラーム世界では都市と都市を結ぶ交通路が整備され、イスラーム・ネットワークが成立していた。さらにイスラーム都市には、各地に旅人を支える公共施設があったのである。
それらの施設は、イスラーム世界独自の財産寄進制度(ワクフ財)によって維持されていることが多く、宿泊や衣食が無償で提供されていたという。イスラーム教では、旅人は神から数多くの恩寵が与えられた、守られるべき存在であった(家島彦一『イブン・バットゥータの世界大旅行』)。
イブン・バットゥータも行く先々で、家に招かれ、衣食を提供されるなど、歓待を受けている。
とはいえ、決して楽な旅ではなかった。
その足かけ30年にもおよぶ大旅行は幾度も病に倒れ、盗賊や異教徒に襲われ、時には身ぐるみはがされるという苦難の連続でもあった。それでも彼は、真実を知ることに無上の喜びを感じ、世界を自分の目で見届けたいと旅を続けたのだ。
「できる限り、一度通った道を戻らない」という哲学を貫く、希代の旅人の不思議な足跡を、彼の口述を編纂した旅行記『大旅行記』(家島彦一訳注)の記述を中心に、辿ってみよう。
イブン・バットゥータはヒジュラ暦(イスラム暦)703年のラジャブ月17日(1304年2月24日)に、タンジェ(現モロッコ北部のタンジール)で誕生した。この頃のタンジェは、マリーン朝(1269〜1465年)というイスラーム王朝の統治下にあった。
イブン・バットゥータの家系や家族については不明な点が多いが、彼の父と父方の従兄弟が法官を務めていたことから、法学に関係する知識人の家系であったのではないかとみられている。
イブン・バットゥータが大旅行への一歩を踏み出すのは、21歳の時のことである。
当初の旅の目的は、メッカ巡礼にあった。アラビア半島にある聖地メッカを訪れ、巡礼を果たすことは、イスラーム信仰を支える「5つの柱」(宗教的義務)の1つであった。
1325年6月14日、イブン・バットゥータは「あたかも巣立ちする小鳥の如く」、ただ一人、メッカを目指して壮途についた。このときはまだ、歴史に残る大旅行になるとは夢にも思わなかっただろう。
故郷を発ったイブン・バットゥータは、同年9月10日にチュニスに到着。チュニス滞在中にメッカ巡礼のキャラバンが編成されると、巡礼隊の公認の法官に任命された。このことから、21歳にして法官として認められるほどの高い学識を備えていたと思われる。
メッカまでの旅路の間、イブン・バットゥータは同行するキャラバン仲間の娘と最初の結婚をしたが、ごく短期間で離婚し、次に同郷のファース出身の学者の娘と再婚している。この2番目の妻は、旅路の途中でダマスカスに残り、同年に男児を産んだ。イブン・バットゥータは以後も、長い長い旅の間に、何度も結婚を繰り返すことになる。
もう一つ興味深い挿話がある。イブン・バットゥータはイスラーム教の二人の聖人からそれぞれ、「インドとスィンド(現パキスタン南東部の州)と中国にいる私の門弟を訪ねるに違いない」、「メッカ巡礼を遂げた後も、イエメンとイラクの諸地方やインド地方を旅し、インドには長期間、滞在するだろう」と予見されているのだ。
あちこちの国を遍歴するのがことのほか好きではあったイブン・バットゥータだが、まだインドや中国といった遠方の国々まで訪れようとは思っていなかった。しかし、遙か遠くの国々を訪れ、世界をこの目で見たいと願うようになり、それを実現させていく。
更新:12月04日 00:05