
シリアのヤッファで、ペストに苦しむフランス軍兵士たちを見舞って激励するナポレオンの美徳と勇気を演出している。アントワーヌ・ジャン・グロ画。ルーヴル美術館蔵。Antoine-Jean Gros / Wikimedia Commons
1790年代のフランスでは、王党派の反動と民衆運動の再燃、対外戦争の長期化が重なり、政治は混乱を極めていた。そんな中、ひとりの若い軍人が頭角を現す。ナポレオン・ボナパルトである。彼は戦場での勝利だけでなく、巧妙な"見せ方"によって国民の支持をつかみ、英雄へと押し上げられていった。本稿では、そのイメージ戦略の実像を書籍『教養としての「フランス史」の読み方』より解説する。
※本稿は、福井憲彦著『教養としての「フランス史」の読み方』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
総裁政府で中心になったのは、ポール・バラスに代表されるテルミドール派と言われる人たちでした。
しかし、政治的立場として比較的穏健な彼らが権力の座についたことで、それまで粛清を恐れて表立ったことを避けていた王党派が各地で革命派を襲撃したり(「白色テロ」と言われます)、パリでは武装蜂起したりします。
この王党派による武装蜂起の鎮圧に、砲兵隊を率いて功をあげ、じきに26歳の若さで国内軍司令官に抜擢されたのが、ナポレオン・ボナパルトでした。
総裁政府になって活動を再開したのは、王党派だけではありませんでした。
民衆運動も、かなり勢力を縮小してはいたものの、この時期に息を吹き返しています。さらに、革命政府を潰そうとする近隣君主国との戦争も、いまだ続いていました。
こうした状況の中、総裁政府の政治は、そのときどきの趨勢に左右され、安定しませんでした。
ナポレオンは当初、どちらかというとロベスピエール派に近い考えを持っていたのではないかと言われていますが、実際のところはよくわかりません。

「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」。ダヴィッド画。イメージアップの絵だった。
Jacques-Louis David / Wikimedia Commons
バラスに目をかけられたナポレオンは、1796年にはまだ最高司令官ではありませんが、遠征軍の司令官としてイタリアに向かいます。
このイタリア遠征でナポレオンは、大勝とまではいかないものの、敵軍を制圧し、勝利をおさめます。
総裁政府の政治が安定しない中、ナポレオン軍のイタリア戦線での勝利は、民衆に非常に大きなインパクトを与えることになります。
というのも、ナポレオンは非常にイメージ戦略に長けた人で、イタリア遠征を自らのブランディングに利用し、見事に成功させています。彼はイタリアから状況報告を短報のようなかたちでパリに送っているのですが、自分にとって好ましい報告しか送っていないのです。
いい報告しか届かないので、当然パリではナポレオンがまるで神がかったような指揮で連戦連勝を飾っているような印象を受けます。イタリア遠征でナポレオンは確かに各地で勝利をおさめてはいるのですが、実際にはフランスの圧勝と言えるほどのものではありませんでした。
しかし、いい報告しか聞かされていないパリの人々は、勝手に大勝利だと思いこみ、1797年12月にナポレオンがパリに凱旋したときには、フランスの英雄として熱狂的に迎え入れたのです。
彼のイメージ戦略で注目すべきは、彼が決して噓はついていない、ということです。イタリアからの戦況報告も、いいことしか伝えていないだけで、勝利を捏造したわけではありません。
こうした「見せ方のうまさ」は、彼が権力の座に上り詰めていくうえで非常に大きな働きをしました。
たとえば、ナポレオンと言ったときに多くの人がイメージするのは、白馬にまたがってアルプス越えをするナポレオンの姿でしょう。ダヴィッドが描いたものですが、あれもイタリア遠征の報告と同じで、彼が二回目の遠征でアルプスを越えたのは事実ですが、そのときの真実の姿を描いたものではありません。
この絵に描かれたナポレオンが着ている軍服も馬も、実際の彼の持ち物を参考に描かれましたが、ナポレオンが実際にアルプス越えをしたときにまたがっていたのは、馬ではなくラバでした。
また、ナポレオン自身の姿も、これは画家であるダヴィッドが忖度したことなのかもしれませんが、実物よりはるかに格好よく描かれています。背景にも演出効果が見てとれます。黒い雲が立ちこめる空、険しく切り立った山肌、そして足下の岩には「HANNIBAL/ハンニバル」「KAROLVSMAGNVSIMP/シャルルマーニュ」といった英雄の名とともに「BONAPARTE/ボナパルト」の文字が刻まれているのです。
ほかにも、ナポレオンのイメージを高めた絵画に、アントワーヌ・ジャン・グロの描いた「ヤッファのペスト患者を見舞うナポレオン」があります。
これはエジプトからシリアへ遠征したときのエピソードですが、ヤッファで軍病院として使われていたモスクに集められていたフランス軍のペスト患者を、ナポレオンが見舞っている様子が描かれています。その絵の中のナポレオンは、上半身裸のペスト患者の腫瘍部分に、手袋を外し、素手で触れているのです。
さらにご丁寧に、ナポレオンの傍らに立つ医師は、ナポレオンのその行為を押しとどめようとし、近くの将校は自らの鼻を手でふさいでいるのです。
これも、実に上手な演出です。もちろん、この絵もどこまで真実なのかは、実に怪しいものです。おそらく軍病院に入ったことは事実でも、患者に直接触れるようなことはしていないのではないでしょうか。
また彼は、演説や言葉の使い方にも長けていました。
有名な話ですが、エジプト遠征に行った際、ピラミッドの戦いを前にした演説で、「4000年の歴史が諸君を見守っている」という言葉で兵士たちを鼓舞しています。
もちろん、こうした台詞も、今と違って実際の映像などが残っているわけではないので、どこまで真実かわかりません。
絵画にしても演説にしても、そうしたものをうまく利用して自分のイメージを、強く、格好よく、しかも国民の先頭に立って困難な状況の中、国のために戦う軍人として売りこんでいるのです。
演出が功を奏したということは、裏を返せば、人々が何を望んでいたかをナポレオンはよくわかっていた、ということでもあります。
総裁政府は政治理念がふらふらと定まらないし、周辺諸国はフランスへの軍事介入の手をゆるめていません。都市部でも農村部でも王党派の策動や民衆運動が続発しています。王政末期からすでに十年以上混乱が続く中で、人々はやはり安定を求めていたのだと思います。そして、そういう人々にナポレオンは、「この人に任せれば」という希望を演出したと言えるのです。
演出はするけれど、噓はつかない。リーダーシップはとるけれど、自分に逆らう者を潰すような過激なことはしない。こうしたナポレオンの民衆に対する態度は、彼が皇帝に上り詰めた後も基本的には変わりませんでした。
たとえば、ナポレオンは農民から高い人気を博すのですが、それは彼がジャコバン派の独裁時代に農民が無償で得た土地を、返還させるようなことをしなかったからです。
また、ナポレオンはカトリックを公認しなおす、ということもしています。農村は教会と強く結びついていたので、これも農民たちの支持を勝ち得る要因の一つとなっています。
つまりナポレオンは、自分の実力を演出によって何倍にもしてみせることで、民衆の人気と信頼を勝ちとり、のしあがっていく基盤にしたと言えるのです。
更新:12月04日 00:05