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天才たちの20歳 ニュートン、ブラームス、ラ・ファイエットの人生を変えた「運命の出会い」

2026年01月07日 公開

鷹橋 忍(作家)

世界の偉人たちは20歳の頃、どんな時間を過ごしていたのか

成人の日、多くの自治体で20歳を迎える若者を祝福するイベントが催されます。成人年齢は2022年に18歳に引き下げられましたが、やはり「20歳」は人生の大きな区切りとして意識されているといえそうです。

さて、世界の英雄や偉人、秀でた能力で名を残した人たちは、20歳の時、何を考え、どんなことをしていたのでしょうか。物理学者のアイザック・ニュートンや作曲家のブラームス、フランスの軍人ラ・ファイエットは、人生を大転換させる運命の出会いがあったようです。

※本稿は、『歴史街道』2020年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

【ヨハネス・ブラームス】ブロンドの美青年が過ごした、シューマンとその美しき妻との日々

『ハンガリー舞曲』などの作曲で知られるブラームスの人生を決定づけたのは、20歳のときに出会った、作曲家であり、音楽評論家でもあるロベルト・シューマンと、シューマンの妻・クララである。クララは見目麗しく、「天才少女」と謳われた名ピアニストであり、作曲家であった。

1853年9月30日、まだ無名であったブラームスは、知人の紹介で、デュッセルドルフのシューマン夫妻の家を訪ねた。ブラームスが20歳、シューマンが43歳、クララは34歳であった。

ブラームスの作品とピアノ演奏に対し、クララは「神から遣わされた天才の一人」と称賛し、シューマンは音楽雑誌に寄稿して絶賛した。その評論はドイツ全土で読まれ、大きな反響を巻き起こしたという。ブラームスにとってシューマンは、世に出る足掛かりを作ってくれた恩人なのだ。

こうして、ブラームスとシューマン夫妻のつきあいが始まったのだが、当時、クララの置かれていた環境は、けっけして恵まれたものではなかった。
クララは流産を含めて10回も妊娠し、8人(ブラームスと出会ったときは7人)の子供を出産している。妊娠と母親業で大変なうえに、夫のシューマンは精神が不安定で、しかも悪化の傾向にあった。

くわえて、現代でこそ名高いシューマンだが、当時の年収は、クララの1回の演奏旅行での収益よりも少なかった。つまり、クララが家計を支えていたのだ。

多くの役割を背負い、壊れつつある夫を支えるクララの瞳に、20歳のブラームスの姿は、どのように映ったのか。
若き日のブラームスは、「絵のように美しい」と称された、ブロンドの美青年であったという。

やがて、シューマンの精神状態はさらに危うくなっていく。ブラームスがシューマン宅を初めて訪れてから約5ケ月後、シューマンはライン川に飛び込み、自殺を図った。

幸い一命は取りとめたが、シューマンは自らの意志で、精神科医のいる療養所に入った。そのとき、クララは8番目の子供を妊娠中だった。ブラームスは、シューマン宅に滞在し、クララに寄り添ったという。

入院から2年と5ケ月が経った頃、シューマンは入院先で亡くなった。享年46であった。

シューマンの死後も、ブラームスとクララが結婚することはなかった。不倫説の残る2人であるが、その真偽は不明である。
その後、ブラームスは独身を通したまま40年以上もクララと親しい交流を続け──クララが亡くなった約10ケ月後に、永遠の眠りに就いた。

 

【ラ・ファイエット】フランスの名門貴族の青年は、なぜアメリカ独立戦争に参加したのか

ラ・ファイエットは、フランスの軍人、政治家である。
彼の一族は、何人も高名な軍人を輩出した名門貴族で、しかも裕福であった。ベルサイユ宮殿にも出入りでき、マリー・アントワネットに「ダンスが下手ね」と笑われたという。

ラ・ファイエットの運命を変えたのは、20歳の年に参戦したアメリカ独立戦争である。アメリカ東部沿岸にある13の植民地の人々が、イギリスの支配に反発し、独立を求めて立ち上がったのだ。

ラ・ファイエットは支援を求めるアメリカ人たちとパリで知り合い、「私もアメリカの自由と独立のために戦おう」と決意。国王の渡航禁止命令を振りきって自費で船を購入し、兵団を仕立てた。

1777年4月、20歳を目前にしたラ・ファイエットは、妻を残して渡米する。
アメリカでは大歓迎を受け、アメリカ革命軍の総司令官にして、後に初代アメリカ大統領となるジョージ・ワシントンとの知遇を得た。

ラ・ファイエットは、アメリカ軍とともに各地を転戦して活躍。その勝敗を決定づけた1781年の「ヨークタウンの戦い」にも参加し、大勝を収めると、同年の暮れに帰国した。

やがて、フランスも革命へと突入していく。1789年、ラ・ファイエットは三部会招集を主張して貴族身分の代表となるが、いち早く平民の第三身分に合流し、アメリカの独立宣言に影響を受けた人権宣言案を提案した。

革命に流れが傾いてくると、パリ市民たちは「軍隊が出動し、パリを制圧するのでは?」とパニック状態に陥り、「国民衛兵隊」を結成してバスティーユ牢獄を襲撃した。ラ・ファイエットは、その翌日に市民に推される形で国民衛兵隊司令官に就任する。
当時32歳。白馬に跨がる軍服姿は非常に凜々しく、人々はその勇姿に熱狂した。革命のヒーローと言っても、過言ではないだろう。

フランスでは、アメリカ(新大陸)、ヨーロッパ(旧大陸)の「両世界の英雄」と称えられた。

しかし、ヒーローだった時間は短かった。1791年、群衆への発砲を命じた「シャン・ド・マルスの虐殺事件」でその人気は失墜し、国民衛兵隊司令官を辞職した。それでも彼は、下院議員として反政府派に属すなど、政治的立場を変えながら、その後も理想を追い続けた。

ラ・ファイエットの波瀾万丈の人生は、1834年5月20日に幕が下ろされた。享年76。両世界の英雄の死に際して、フランスでは国葬が営まれ、アメリカでは、上下両院が30日間の喪を宣言し、哀悼の意を表した。
ラ・ファイエットは晩年を迎えても、額に一本の皺もなく、若々しかったという。アメリカの自由のために海を渡った20歳の頃のように、理想を追い続けていたからなのかもしれない。

 

【アイザック・ニュートン】“最下層”にいた学生生活を変えた、ある講座の新設

ニュートンにとって、大学の頃の思い出は、あまりいいものではなかったかもしれない。名門ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの学生ではあったものの、学生階級の最下層に位置する免費生であったからだ。

当時のトリニティ・カレッジには、私費で授業料を収める自費生、すこぶる裕福な特別自費生、奨学金が支給される給費研究生の他、召使いのような仕事をして、学費や生活費を賄う免費生と準免費生が存在した。

免費生と準免費生は、朝起こしたり、靴を磨いたり、荷物を運んだりと、他の学生や特別研究員に下僕のごとく仕えねばならなかった。大食堂では給仕を務め、残り物で食事をしたという。

この身分と、元来の内向的な性格のせいか、ニュートンは友人もおらず、いつも憂鬱な容貌(メランコリ・カウンテナンス)をしていたと伝わる。学問への情熱だけが、その頃の支えだったのかもしれない。

しかし、20歳になったニュートンに、大きな転機が訪れる。「ルーカス講座」と呼ばれる数学講座がカレッジに新設され、初代教授にアイザック・バローが就任したのだ。
ニュートンより12歳年長のバローは、抜群のギリシャ語力を誇り、ラテン語やヘブライ語も操る古典学者であり、最も重要な神学者でもあり、高い評価を受ける数学者でもあった。

天才は天才がわかるというが、バローはニュートンの天賦の才を見抜いたようだ。研究に役立ちそうな論文を送ったり、ニュートンの論文が優れた数学者たちの間で回覧されるきっかけを作ったりと、惜しみなく支援した。後にニュートンが製作した反射望遠鏡を、大晦日に王立協会(イギリスの代表的学術団体)へ届けたのもバローである。

つまり、バローという、よき理解者であり、よき支援者との出会いが、天才物理学者・ニュートンを世に送り出したのである。

くわえてバローは、1669年10月に、ルーカス教授職をニュートンに譲っている。ニュートンは26歳の若さでルーカス教授となり、研究に没頭できる基盤を手に入れた。これによって研究は進み、44歳で出版した『プリンキピア』は近代科学の教科書となった。

晩年、ニュートンは「私は海辺で遊ぶ少年にすぎない。普通よりもなめらかな小石や、かわいい貝殻を見つけて気晴らしをしているものの、真理の大海はすべてが発見されぬまま、目の前に広がっている」と語ったという。

この言葉通りニュートンの学問への情熱は衰えず、84歳で亡くなる半月前まで王立協会の会合に出席している。
最期の瞬間まで真理の大海を見つめ続けたニュートンは、憂鬱な容貌の免費生であった20歳の心を、終生持ち続けたのだ。

プロフィール

鷹橋忍(たかはし・しのぶ)

作家

昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。

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