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ナポレオンが“奴隷貿易を復活させた”理由 経済政策の裏にあった現実

福井憲彦(学習院大学名誉教授)

ナポレオンの戴冠式

ナポレオン政権の時代、フランスは長引く戦争と財政難に直面していた。中央集権化の推進や工業化政策、大陸封鎖令といった経済改革が試みられたものの、期待した効果は得られず、国家は新たな収入源を求めざるを得なくなる。こうした状況の中で、ナポレオンは植民地における奴隷制・奴隷貿易の復活という重大な政策転換を決断する。本稿では、この背景とナポレオンの経済戦略についてを書籍『教養としての「フランス史」の読み方』より解説する。

※本稿は、福井憲彦著『教養としての「フランス史」の読み方』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

中央集権化と金融改革の推進

戦争を続けるナポレオン政権にとって、経済政策は急務でした。

そこでナポレオンは政権を握るとすぐに、中央集権的な統治システムの構築を行います。中央集権化は王政末期にも、革命期にもやろうとしてやりきれなかった国家的課題でした。ナポレオンは非常に強力な軍事権力を手にしたことで、統領の時代からそれを上から断行していきます。

ナポレオンが目指したのは、全国からすべての情報を自分のもとに集め、すべて自分が判断を下し、その判断通りに地方が動くことでした。

そのために彼は県知事を任命制にし、自分の息のかかった人物を県知事として全国に配置することで、自らの意向を国の隅々にまで行き届かせるようにしたのです。

こうした地方政策と同時に、ナポレオンは中央官庁のシステム整備も行います。地方には信用できる人材を配したのに対し、中央ではかなりの高額な給与体系を組んでいくことで、安定した中央集権的官僚機構の構築を目指しました。

彼の統治期間は統領時代を含めても約14年という短いものなので、こうしたシステムがどこまで機能したかは、研究者の中でも議論が分かれるところなのですが、目指す中央集権の方向性が彼によって明確になったことは事実です。

フランスの政治史を専門とする研究者の中には、フランス革命とは、王政末期から始まる中央集権的なシステム形成に夾雑物として入ってきたものとする人もいるのですが、私はフランス革命も、統一的な法体系に基づく中央集権化を目指してはいたのだと考えています。

目指してはいたのだけれど、頻発する内戦や外国との戦いに対処するのが精一杯で、こうした戦時体制下では、整備している余裕が時間的にも体力的にもなかった、というのが実態だったのではないかと思っています。

地域ごとにばらばらな動きをしていて、王権にも革命政府にもコントロールできなかったものを、ナポレオンが推進していけたのは、やはりその背景に強い軍事力を持っていたからでしょう。

ですから彼の行った中央集権化は、彼が新たに構築したというより、むしろ旧体制下で部分的に動きはじめたものをさらに加速させたもの、と言えるでしょう。実際、高級官僚の多くは、旧体制の時代から、その職にずっとついていた人たちだったと言われています。

メンバーが大きく入れ替わっていないということは、彼ら官僚にとって重要なのはイデオロギーではなかったということです。

そう考えると、ナポレオンが給与を上げることで中央官僚のコントロールを目指したことも納得がいきます。もらえるものがきちんとしていれば、彼ら官僚たちはイデオロギーに関係なく、国家システムを合理的に動かすための仕事をした、ということなのだと思います。

中央集権化が進んだことで、以前より安定した税収が見こめるようになったものの、戦争を続けることを考えれば、とてもではありませんが足りません。

そこで1800年2月、ナポレオンはフランス銀行を設立します。宿敵イギリスでは、すでに17世紀末にイングランド銀行が設立され、18世紀には戦費調達のために発行する国債を銀行が裏打ちするという、高い信用に基づくシステムが機能していました。

フランス銀行を設立しても信用体系ができるにはある程度の時間が必要なので、すぐに大きな変化があるわけではありませんが、将来のナポレオン帝国を視野に入れていた彼は、この時点ではまだ民間企業のかたちですが、銀行をつくることを優先したのだと思います。

ナポレオンがこのとき設立したフランス銀行がイングランド銀行のような位置を占めるのは、19世紀半ばになってからですが、このとき設立していなければ、フランスの経済的発展はさらに遅れたかもしれません。

 

工業化政策の限界

ナポレオンは、経済発展のために、工業化の推進にも力を注いでいます。

ここでも参考にしたのは、工業化が先行するイギリスでした。イギリス経済に対抗するため、彼は技術革新への援助や、道路や運河などのインフラ整備、金融面での優遇など国家保護というかたちでの関与を積極的に行っています。

さらに帝政期に入った1806年には、イギリスとの通商を禁じ、その商品を大陸に入れないよう「大陸封鎖令」を出し、それに周辺諸国も従わせることで、フランスで興隆しつつあった綿織物産業などを保護しようとしています。

しかし、この大陸封鎖令は、ナポレオンが目論んだようにはうまくいきませんでした。

一つは、工業化を推進しようとしたものの、現場ではまだ旧来の仕組みが根強く存続していたため、短期間では期待していたほどには伸びなかったこと、また大陸諸国にフランス製品を輸送する交通インフラが不十分だったこともあります。

さらに、この大陸封鎖令は、イギリスと取引をしていたフランス商人やほかの大陸各地の人々に打撃を与えるという、思わぬ副作用をもたらすことにもなってしまいました。

 

利益のために奴隷制を復活させたナポレオン

このように新しい経済政策が思うような利益を生み出してくれない中、目を向けたのが植民地経済で、その利益のための奴隷制・奴隷貿易の復活でした。

基本的人権を掲げたフランス革命によって、革命下のフランスでは基本的に海外領土でも奴隷制・奴隷貿易は禁止されました。

ナポレオンは、その禁止されていた奴隷制・奴隷貿易を植民地に限ってのことですが、公式に認め復活させたのです。

ナポレオンに、これが人権に反するような行為であるという意識がなかったのかと言えば、それはわかりません。

しかし、フランスの経済を改善するために、あるいは自分の野望を実現させるために必要であれば、そうしたことも辞さない、というのがナポレオンのやり方だったということです。

 

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