
松尾山・小早川秀秋陣跡から眺める関ヶ原古戦場
小早川秀秋は、関ケ原合戦での「裏切者」として語られるだけでなく、裏切りに至るまでの経緯や、豊臣秀吉に訓戒されたことから、愚純な「凡将」とのイメージが強い。だが果たして、それらは本当に妥当な評価なのか。資料を読み直すことで見えてくる実像とは──。
※本稿は、『歴史街道』2024年9月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
小早川秀秋は、関ケ原合戦における「裏切り」で名高い。また、裏切りの際も行動に迷い、家康からの「問い鉄砲」によってようやく決断した、優柔不断な武将とされてきた。
しかし、このような秀秋像は、江戸期日本社会に広まっていった儒学(朱子学)思想の影響をうけた、軍記類の記述に拠る所が大きい。
秀秋の「裏切り」を極めて反武士的な行動として叙述することによって、武士に必要な倫理観が提示され、武士階級にとって、秀秋は反面教師の典型像となった。そして軍記類に基づく秀秋像は、庶民にも広まっていった。
庶民が武士階級による支配を受容した背景には、武士が「倫理観に満ちた」存在であると思い込ませていたこともあげられる。江戸期の倫理観における「悪」の代表格として、秀秋像が必要とされたのである。
そこで本稿では、軍記類を通じて形成された虚像を排して、秀秋の実像に迫っていきたい(黒田基樹『小早川秀秋』戎光祥出版、光成準治『小早川隆景・秀秋』ミネルヴァ書房)。
秀秋は、豊臣秀吉の妻・北政所の実兄である木下家定の子として生まれた。幼児の頃から北政所に養育され、天正13年(1585)閏8月以前に秀吉の養子となり、その頃から天正16年(1588)まで、秀吉の後継者候補の筆頭格だった。
秀吉の血縁者には、姉の子・秀次兄弟があり、秀秋には兄がいた。
それにもかかわらず、秀秋が秀吉の後継者候補の筆頭格に擬せられていたのは、幼いながらも秀秋に優れた資質があると、秀吉が感じていたからと推定される。
秀秋の優秀さは、次の事例からもうかがえる。秀吉に実子・秀頼が誕生したことにより、秀秋が毛利輝元の養女と婚姻して小早川家(当時の当主は輝元の叔父・小早川隆景)を継承することになった際、輝元はその養女に与えた心得において、秀秋を「利口者」と評しているのだ。
ところが、慶長2年(1597)の朝鮮渡海直前頃から、秀秋と彼の補佐役だった山口玄蕃頭との関係が悪化。渡海後、秀吉は「心を直し、おとなしく心持ち、分別あるべく候」「今より以後、心底の嗜み肝要候」という訓戒を秀秋に発している(「木下家文書」)。
このような訓戒は、秀秋の愚鈍さを示す証左にもみえる。もっとも、この訓戒の主旨は山口との関係改善を求めることにあった点に留意しなければならない。秀吉は山口を中心とする小早川家の運営を継続させようとしていたが、秀秋は山口の補佐から脱して、名実ともに自らを頂点とする支配体制を構築しようとした。
つまり、秀秋は「利口者」であることを自分自身認識しており、その自負心が山口との対立を生んだと考えられる。
「問い鉄砲」のエピソードから、秀秋には軟弱なイメージが付きまとってきた。
しかし近年、「問い鉄砲」はフィクションで、戦闘当日の秀秋の行動は果断だった、との見解が有力になっている(白峰旬『新解釈関ヶ原合戦の真実─脚色された天下分け目の戦い』宮帯出版社)。
では、実際に秀秋に接した人物は、秀秋をどのように評価していたのだろうか。
岡山城主期の秀秋に仕えた大河内秀元の事蹟を、秀元の子・秀連が聞書きした「光禄物語」において、秀秋は側近家臣たちと武芸にいそしむ「無類大勇将」と評されている(倉員正江「小早川秀秋─大河内秀元著『光禄物語』を中心に─」〈『アジア遊学』212〉)。
一方、軍記類では、慶長3年(1598)初頭の蔚山倭城救援において、秀秋は自ら前線で戦ったが、その行動を秀吉に咎められて減封処分になったとされている。そうすると、「勇将」は軽挙妄動というマイナス評価にもつながる。
しかし、同時代史料において秀秋が朝鮮渡海時に前線に出たことを示すものはない。大河内秀元も戦場での秀秋を「勇将」と評したのではなく、日常の武芸鍛錬を指して評したのである。
したがって、軍事指揮官の適性を欠く秀秋像も虚像に過ぎないといえるだろう。
蔚山合戦後に帰国した秀秋は、越前・加賀へ移封された。この移封については、前項で触れた軽挙妄動によって、朝鮮半島における戦争の後方基地としての役割を果たしていた北部九州地域の支配者としての適格性を否定され、左遷されたものと考えられてきた。左遷の背後には、石田三成の讒言があったという説も根強い。
だがこの移封は、朝鮮半島における戦況の悪化によって、後方基地を豊臣政権が直接統治する必要性が生じたためと考えられる。
また、移封前後の石高を比較すると減封にみえるが、それは関係の悪化した山口玄蕃頭が独立大名になったことや、秀秋の与力的存在だった北部九州の国人領主層を越前・加賀に随伴しなかったためである。秀秋権力の直接支配地という観点でみると、左遷とはいえないのだ。
地理的観点からみると、この移封は秀吉の体調悪化を踏まえ、ほぼ唯一の一門である秀秋を、秀頼を支える存在として畿内近接地域に配置するためのものとも思える。また、三成の讒言は、秀秋の「裏切り」の伏線となるエピソードとして創作されたものと考えられる。
その後、慶長3年8月に秀吉が死没すると、秀秋は北部九州へ復領した。この復領を強く後押ししたのは徳川家康であったとされ、その恩義が、関ケ原合戦時の秀秋の動向を左右したとする説もある。しかし、復領は豊臣政権の合議体制に則った機関決定を経たものであり、家康の独断ではない。復領に至った要因は、日本軍の朝鮮半島からの撤退を踏まえ、豊臣政権による北部九州地域の直接統治の必要性がなくなったことにある。
家康は慶長5年(1600)6月、上杉景勝討伐のため会津に向けて出陣したが、秀秋は従軍せず、7月に三成らが挙兵すると、いわゆる西軍に荷担して、まず、家康留守居の籠る伏見城攻撃に参加した。
その経緯について、秀秋の岡山城主期の重臣・稲葉正成(当時の実名は通政)の事蹟が記された「寛永諸家系図伝」においては、次のような事情があげられている。
①家康の留守中に上方において家康への叛逆者があったときに備えて、秀秋は上方に残った。
②三成が謀叛を企て、秀秋に対して、秀頼が15歳になるまで秀秋に天下を委任すること、筑前・筑後に加えて播磨国を秀秋に与えることを約束したが、秀秋は拒絶した。
③秀秋は伏見城に使者を派遣して、本丸に北政所と秀秋の父・木下肥後守を入れ、秀秋らは西ノ丸を守備することを申し出た。だが、伏見城留守居・鳥居元忠が拒否したため、秀秋はやむなく伏見城を攻めた。
しかし、これらの記述の信憑性は低い。例えば、秀秋勢が伏見城攻撃に向かったのは、7月21日頃(『時慶記』7月22日条)。伏見城攻撃が始まった(20日)直後の出陣であり、秀秋の行動は迅速だった。やむなく出陣したようにはみえない。また、伏見城攻撃では大きな戦功をあげており、その働きも顕著であった。
豊臣政権の基本方針に従い上方に残っていた秀秋は、周囲の情勢を判断して西軍に荷担することを決め、当初は積極的に家康討伐に尽力していたのである。
伏見城攻略後の秀秋は、主として京都の守備を担っていた。先にみた「寛永諸家系図伝」では、次のように記されている。
三成の命により伊勢国安濃津城攻めに向かったが、すでに家康に内通していたため、関地蔵(三重県亀山市)から引き返した。近江国高宮(滋賀県彦根市)に陣を置き、さらに、柏原(滋賀県米原市)に移り、関ケ原における戦闘前には、友軍の伊藤長門守を追い出して、松尾山の新城に籠もった──。
ところが、8月下旬時点において、秀秋は京都に居たと考えられ、伊勢方面への転戦は確認できない。
また、松尾山への布陣は東軍の西上に備えて、松尾山に大軍を配置する必要があったため、西軍首脳部の合議によって決定したものと思われる。
伊藤を追い出した事実はなく、この時点までは、秀秋の内心はさておき、西軍として行動していた。
とはいえ、肥後に在国していた加藤清正は9月16日(すでに関ケ原における戦闘は終結しているが、その情報は九州に伝わっていない)、秀秋の家康への内通を認識している(『黒田家文書』)。したがって、秀秋の東軍への荷担決断は、関ケ原における戦闘のあった9月15日よりかなり遡ると推定される。
9月15日の関ケ原における戦闘は、秀秋の東軍への荷担により、危機に陥った大谷吉継を救援するため、大垣城の石田三成らが急遽関ケ原方面に転戦したことによって起こったものだった(白峰旬『新「関ヶ原合戦」論─定説を覆す史上最大の戦いの真実』新人物往来社、『新解釈関ヶ原合戦の真実─脚色された天下分け目の戦い』宮帯出版社)。
秀秋はこの日、開戦当初から東軍として参戦したのであり、戦闘中の「裏切り」ではなかったのだ。
関ケ原における戦功により、秀秋は備前・美作など約40万石に加増され、岡山へ入城した。
岡山城主期の秀秋は、岡山城の改修、給地・蔵入地の再編、検地、軍事編成の整備、法の制定など、大改革に着手していた(黒田基樹『戦国期領域権力と地域社会』岩田書院)。
ところが、慶長7年(1602)10月18日に急死。嗣子がなかったため、家は断絶した。
汚名返上のために、自らの力で地域支配に取り組み、「名君」たらんと欲した矢先に、秀秋はこの世を去った。
小早川秀秋家が大名として存続すれば、汚名を払拭する創作も可能であったが、それも叶わず、関ケ原合戦における悪名を一身に浴び、凡将の評価のみが残ったのである。
【光成準治(みつなり・じゅんじ)】
九州大学大学院特別研究者。昭和38年(1963)、大阪府生まれ。平成18年(2006)、九州大学大学院比較社会文化学府博士課程修了。博士(比較社会文化)。現在、九州大学大学院比較社会文化研究院特別研究者。著書に『関ヶ原前夜』『小早川隆景・秀秋』『本能寺前夜』『九州の関ヶ原』などがある。
更新:10月02日 00:05