
本格大河からファンタジーまで、多彩なジャンルの中国時代劇が注目を集めている。
中でも根強い人気を誇るのが、寵姫たちが皇帝の愛情を独占すべく競い合う宮廷ロマンスだ。実際の中国王朝における後宮も、ドラマのように華やかでドロドロとしたものだったのだろうか? 今回は、その中でも奸婦と語られた女性を紹介しよう。
※本稿は、『歴史街道』2024年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです
中国4大美人、世界3大美人に数えられ、皇帝を惑わし国を混乱させた「傾国の美女」として歴史に名を残す楊貴妃。
本名を楊玉環といい、17歳で唐の玄宗(685〜762年)の子・寿王の妃として後宮に入った。才智に優れ、歌舞音曲に巧みで豊満な美女だったという。
22歳のときに玄宗に見初められ、寿王が失脚したのを受けると、一度出家させられてから玄宗の後宮に入り、皇后に次ぐ地位の貴妃となって寵愛を受けた。
玄宗は、武即天によって一度消滅した唐を再建し、「開元の治」と呼ばれる最盛期を築いた名君であった。しかし、楊貴妃を寵愛するようになると政治への関心を失い、楊貴妃の好物であるライチを南方から早馬で運ばせ、数百人もの工人を使って衣服や装飾品を作らせ、盛大な宴を開いて瀟洒に溺れた。
さらに、楊貴妃が望むまま、楊貴妃の一族の楊国忠を宰相に、楊貴妃の寵臣である安禄山を節度使として重用した。ところが、楊国忠と安禄山が対立するようになり、安禄山が「安史の乱」と呼ばれる反乱を起こし都に迫った。
玄宗は楊貴妃を連れて南方に逃れようとしたが、道中で乱の原因となった楊国忠が兵士たちに殺され、さらに楊貴妃の処刑まで求められた。玄宗は反対したが、臣下の追及に逆らえず処刑に同意し、自身も退位した。
やがて、乱が収束して都に戻った玄宗は、楊貴妃の姿を描いた絵を見ながら余生をすごしたという。玄宗と楊貴妃の物語は、後に詩人の白居易が「長恨歌」にしたため、後世に伝えられた。
満洲族の建てた清では、3年ごとに后妃を選抜する選秀女(せんしゅうじょ)という試験が行なわれており、西太后は18歳で清の9代咸豊帝(1831〜1861年)の後宮に入る。皇帝の寵愛を受けると貴人、嬪と昇格し、10代同治帝となる男子を生んだことにより貴妃となった。
清の後宮では、中宮、東宮、西宮と三つの宮殿があり、西宮に住んだことから西太后と呼ばれる。正妃は東宮に住む東太后で、西太后の生んだ同治帝も東太后の子とされた。
咸豊帝が亡くなると、温和で政治に疎い東太后と共同で後見人となるが、果断で政治的センスに優れた西太后が実権を握った。同治帝が早くに病死すると甥を11代光緒帝とし、東太后が病死したあとはさらに独裁色を強めた。
当時は西欧列強がアジアの植民地化を進めており、西太后は洋務運動と呼ばれる近代化を推進した。
しかし、1895年に日清戦争で日本に敗れると清は弱体化。敗因のひとつとして、西太后が海軍増強の予算を削って豪華な庭園の造営に流用したこと、自身の60歳の誕生日を盛大に祝わせたことなどが挙げられる。
その後は表向き引退し、光緒帝の親政が始まったが、西太后の影響力は根強かった。双方は激しい政争をくり広げたが、光緒帝の改革に反対する守旧派とともにクーデターを決行し、再び実権を握る。
列強の圧力が強まる中、外国人排斥を訴える義和団の乱が起きると、西太后はこれに便乗して日本やロシアなど列強8カ国に宣戦布告。しかし、清軍は連戦連敗で、さらに列強の介入を強めることとなった。
1908年に74歳で死去するが、死にあたって政敵である光緒帝を毒殺し、甥の子にあたるわずか3歳の溥儀を、12代宣統帝とした。
だが、清の弱体化は止まることなく、西太后の死去から4年後、辛亥革命により清は滅亡し、中国最後の王朝となった。
更新:08月10日 00:05