
厳しい、しかし頼もしい──。
太平洋戦争において、部下からそのように慕われた名指揮官がいる。木庭知時(こばともとき)少将である。
その名はあまり知られていないが、彼の真価は、インパール作戦中止後の、過酷な撤退戦において発揮されるのであった。
※本稿は、『歴史街道』2024年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです
敗北した太平洋戦争では、多くの日本軍の指揮官が失敗を犯した。彼らの失敗や欠点は、今でも研究の対象となっている。
しかし、数は少ないながらも「名指揮官」と呼ばれる人々がいたのもまた事実である。硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道、ラバウルで終戦まで自活した今村均などが思い浮かぶだろう。彼らは自伝を残したり、戦記もので取り上げられるなどして、その知名度は一般にも及ぶ。
ただし、その名が知られていなくても指揮官として不利な状況下で最後まで戦い抜いた軍人は他にもいる。陸軍少将・木庭知時もその一人である。軍の要職に就くでもなく、現場の一指揮官として軍歴を終えたこの人物は、玉砕も降伏もせずに最後までその責務を果たした。この目立たない常在戦場の軍人は、いかなる人物だったのか。
木庭知時は明治23年(1890)9月、熊本県に生まれた。長じて陸軍士官学校の25期生となり、卒業後に将校としての道を歩み始める。同期には後に中将となる武藤章、田中新一、富永恭次など、昭和史の中で陸軍を牽引することになる軍人たちもいた。特に、武藤と田中は日米開戦前はそれぞれ軍務局長、作戦部長として大きな役割を担った。
木庭のその後の軍歴は彼らと大きく異なる。隊付将校や連隊副官の他、中隊長、大隊長、連隊長と、常に現場で過ごしてきたといっていい。一見陽の当たりにくい職場ではある。
しかし、同期の武藤章がなかなか部隊長勤務に就けないのを嘆いていることを考えれば、木庭は目立たないながらも一貫して軍人としての本務である部隊長勤務に就いてきたとも言える。木庭が中央(陸軍省や参謀本部)ではなく、部隊長としての軍歴を重ねることになったのは、彼が陸軍幼年学校と陸軍大学校を出ていないことに起因すると思われる。
陸軍中央のエリートとなるような人物は、幼年学校に入り、士官学校を経、さらに陸軍大学校に入ることが多い。士官学校は何も幼年学校を出ていなければ入れない訳ではなく、木庭や前述の今村のように一般の中学校を出てから入る者もいた。
しかし、軍の主流となるのは幼年学校から陸軍大学校へと進んだ軍人たちだった。陸大を出ていない木庭には軍中央の要職に就くチャンスはなかったのである。
だがそれゆえに木庭は、部隊長としての経験を積み、祖国の危難にその能力を発揮することができたのだ。満洲事変や日中戦争など昭和期日本の主要な戦争に参加した木庭は、昭和15年(1940)8月、歩兵第111連隊長となる(大佐)。そして、この部隊を率いて太平洋戦争に従軍する。
木庭が戦地に赴いたのは、昭和18年(1943)4月のことであった。といっても木庭の部隊が進駐したのはジャワ島(インドネシア)のスラバヤであり、昭和17年(1942)に日本が攻略して以降、戦火は絶えていた。さらに物資も豊かで、常夏の気候のせいもあり、人心は緩みがちだったという。
しかし、木庭の部隊は違った。彼は「訓練第一主義」を掲げ、猛訓練に励んだ。スラバヤに到着してから2ケ月間は全将兵の外出は禁止され、大隊同士の対抗演習をよく実施した。演習後の講評では勝敗を裁定したので、参加する部隊は指揮官以下全力で勝つべく臨んだ。
演習場には必ずどこかに木庭の姿があり、中隊長が準備不足で演習を行なっているとどこからか現われ、そのやり方を微細に指導したという。
当初、このような木庭のやり方は連隊の幹部に敬遠されたが、その真意が伝わるにつれ、訓練は実を結んでいった。部下たちは次第に木庭に言われずとも研究や準備を重ねて訓練に臨むようになり、ついには「自分の案よりももっと良い案を、連隊長に教えてもらいたい」とまで思うようになったという。
木庭は戦闘に勝つためには「手兵」、すなわち指揮官の手足のように動ける兵を作り上げる他はなく、手兵を作るためには「訓練第一主義以外に途はない」と考えていた。そしてその訓練は「血の通ったものでなければならない」というのが信念であった。
木庭がこのように熱心に指導したのには1つのきっかけがあった。ジャワに進駐する途次、シンガポールにいる南方軍総司令官の元帥寺内寿一と面会した際の話だ。木庭は寺内に申告を済ませると、夕食を共にした。
この時、寺内は木庭の率いる第111連隊がかつて姫路の第10師団の管轄にあったことを知り、己の日露戦争での経験を持ち出し、「第10師団は弱くて弱くて、日露戦争の奉天会戦のとき、おれの隣が第10師団で、その兵が負傷すれば、中隊長やられました、看護兵看護兵と大声で呼ぶ者もあり、また担架担架と担架を呼んで戦場離脱を願う者がある」と、例を挙げてこきおろしたのである。
木庭はこれにひどく憤慨し、部隊がスラバヤに集結した際に全員を営庭に集めて訓示した。
「自分は熊本生まれであるが兵庫県民から選ばれたみんなの連隊長である以上、兵庫県民の悪口をいわれると癪にさわる。故に兵庫県民の連隊長として次の通り明日から実施する。将校以下この八紘兵舎に宿泊し、向う2ケ月間全員の外出を禁止して日夜訓練に従事する。また戦場で負傷して痛いとか苦しいとか弱音を吐く者は戦死戦傷者として取扱わない」
さすがにこの発言には一同啞然としたが、その後、木庭が実際に全将兵の外出を2ケ月間禁止し、自らも日夜演習に励むに及び、その指導方針は徹底されていった。
木庭の指導下で鍛え抜かれた連隊は、やがてその真価を発揮することになる。
戦局が日本に不利な昭和18年(1943)10月、木庭の部隊はジャワ島を後にした。行先は、連合軍が奪回を狙うビルマである。
木庭の第111連隊は前述の通り本来第10師団の管轄下にあったが、昭和15年8月に師団が満洲に移駐して以降、第54師団が創設されてその指揮下にあった。第54師団は第55師団、第2師団とともに、昭和19年(1944)1月に新設された第28軍の基幹となった。
昭和19年2月、花谷正(はなやただし)率いる第55師団はインパール(「ウ」号)作戦での牽制と英印軍の反攻を予め挫くため、第2次アキャブ(「ハ」号)作戦に参加した。
しかし、第55師団がシンゼイワという地点を攻撃している最中、思わぬ事態が起こった。イギリスの第81西アフリカ師団が、ミョーホン近くに出現したのである。ミョーホンは師団の背後の連絡線を脅かす地点だった。
この危急を救うために派遣されたのが木庭の部隊であった。木庭は当時、アキャブを守備していたが、第28軍はミョーホンの危機を救うために木庭の部隊を軍の直轄にすることにした。木庭は、「手兵」の111連隊に加え、歩兵第143連隊の一部、騎兵第55連隊などを合わせて「木庭支隊」を指揮することになった。
そして「長い間猛訓練をやってきたが、いよいよその成果をためすときがきた。英印軍が1個師団なら相手に不足はない」と勇んで出発した。
木庭は第3大隊に命じて山岳地帯を暗夜に迂回急進させ、敵の側背に出撃させた。大隊は砲や重機関銃を分解して搬送し、予定通り払暁に敵の側背に進出、見事これを撃退したのである。
木庭は部下たちに対し、「よくやってくれた。これもあの苦しい訓練のお陰だ。大・中・小隊長の率先陣頭指揮の賜(たまもの)だ。早くこの有様を、兵庫県民に知らせたい。おれも何だかこれで兵庫県民に申し訳がたち、顔向けができるような気がする」と言葉をかけた。
しかし肝心のシンゼイワ攻略戦は、包囲されている英印軍が空中からの物資補給で余裕があるのに対し、日本側は補給も不足し、英印軍の堅固な防御戦闘により損害が続出した。そして作戦開始(2月3日)から約3週間後の2月26日、とうとう攻略を中止せざるを得なくなった。
昭和19年7月、多くの損害を出したインパール作戦は中止された。第15軍司令官の牟田口廉也は更迭され、それまで第54師団長だった片村四八(しはち)中将が新司令官となった。木庭は8月に少将に進級し、新たに師団の歩兵団長を務めることになる。これとほぼ同時に、新師団長としてやってきたのが宮崎繁三郎である。
宮崎は士官学校では木庭の1期下の26期で、陸大を卒業している。ただし、木庭と同じく軍中央の要職には縁はなく、熱河作戦、ノモンハン事件、インパール作戦で指揮を執った歴戦の軍人であった。
しかし将官となった木庭を待っていたのは、怒濤の反攻を始める英印軍からの過酷な撤退戦であった。
ビルマの雨季は6月から9月だが、この雨季が終わると英印軍の動きも活発になってきた。12月中旬ごろ、ミョーホン北東約15キロメートルに敵軍約3,000が出現した。木庭は直ちにこれを撃退したが、今度はアキャブが攻撃を受けた。
アキャブは木庭のいるミョーホンから約60キロ離れており、山本源丈少佐率いる歩兵第111連隊第1大隊が守備していた。大隊は敵に包囲される恐れがあり、木庭は同部隊にアキャブからの転進(撤退)を命じる。
12月30日、転進した大隊はアキャブ北東約20キロのポンナグンという地点に集結して英印軍の侵攻を阻止していたが、昭和20年(1945)1月6日になると木庭は同部隊に主力への合流を命じる。
ところが翌7日、大隊がカラダン川を渡河中、ベンガル湾から遡上した英印軍の砲艦によって退路が遮断され、主力との連絡もつかなくなってしまう。木庭は大隊を救援すべく信頼する守本正大尉を長とする約40名を派遣した。
救援隊は9日夜ポンナグンに上陸するが、隊長の守本大尉は渡河中に大腿部に貫通銃創を受け、ポンナグンでも大隊を発見できず、虚しく帰還した。
木庭は再び救援隊を出すことを考え、最初に赴いた部隊の将校らに状況を尋ねていた。負傷した守本大尉が口を出そうとすると、なんと木庭は「お前は黙っていろ!」「お前が居ると目障りだ、すぐここを出て行け!」と怒鳴りつけてしまう。
守本大尉は負傷しているとはいえ、船の上で指揮を執ることはできた。第2次救援隊も自分が参加するつもりでいた。そこで改めて救援隊を率いることを直訴すると、最初は厳しかった木庭の眼差しも、慈父のようなそれに変わってようやくその真意を吐露した。
「お前の気持ちはうれしい、しかしお前が第2次に行ってくれるより、早く良くなって1日も早く司令部に帰ってくれるほうが、そのほうが私はうれしいのだ......」
諄々と説く木庭の言葉に、守本大尉は思わず涙した。大尉は他の負傷者と共に後送され、第2次救援隊もなんとか別の場所に移動していた第1大隊と合流することに成功した。
右の守本大尉との会話やスラバヤでの猛訓練に象徴されるように、木庭は部下に対しては時に厳しかった。ただし、その厳しさは真に部下を愛する気持ちから出たものであり、過酷な戦場をともに生き抜くためのものだった。
例えば昭和20年5月27日夜、第54師団が二手に分かれて宮崎が左縦隊、木庭が右縦隊を率いてブロームという町を突破した際のこと。木庭は炊事中の煙を敵に発見される危険を避けるため、「生米を嚙んで食べよ」と命じた。
しかし、包囲を突破するとその安心感からか、米を炊こうとする者がでてきた。木庭は自ら部隊を歩き回り、階級問わずそうした者たちを注意していった。こうして木庭の意図は徹底され、その晩、右縦隊では1人の死者も出なかったという。
「木庭のおやじは鬼よりこわい。しかし、このおやじの言うとおりに後にくっついていけば、なんとか無事に連れて行ってもらえる」
厳しい、しかし頼もしい、というのが部下将兵が木庭に抱く思いだった。
木庭の副官として終始側にいた安則三作少尉は、終戦直後の復員船の中で木庭の思い出を手記にし、「自分は一生、閣下の副官をしていたい」と吐露している。
戦後、故郷に帰った木庭は毎年靖国神社に参拝し、慰霊祭があればどこにでも出かけた。彼はよく、「おれは良い部下を沢山持って幸せであった」と述べていたという。この言葉に対し、木庭の部下は次のような言葉を返している。
「いや、良い部下を沢山持たれたのではない、良い部下を沢山つくられたのである」と。
更新:07月31日 00:05