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紫式部の弟が辞世の句に込めた思い 「なほこの度は生かむとぞおもふ」

2025年08月05日 公開

山口博(富山大学・聖徳大学名誉教授)

和歌に詠まれた「死」

平安時代の和歌を掲載する歌集は、『古今和歌集』から『新古今和歌集』に至る勅撰八代集だけではない。『紫式部集』『清少納言集』など、個人歌集が平安時代だけでも172人分は知られている。

そこには、自然の美しい風物を愛でる花鳥風月の歌は少なく、躍動する人間の日常の姿が刻み込まれている。これらを取り込むことにより、初めて王朝貴族たちの色好み、政権争い、栄光と没落など、悩める平安貴族たちの群像図絵を画き出すことができるのだ。

本稿では、和歌に詠われた「死」について、富山大学・聖徳大学名誉教授の山口博さんに解説して頂いた。

※本稿は、山口博著『悩める平安貴族たち』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

【山口博(やまぐち・ひろし)】
1932年、東京生まれ。東京都立大学大学院博士課程単位取得退学。富山大学・聖徳大学名誉教授、元新潟大学教授。文学博士。2024年 逝去。
著書に、『王朝歌檀の研究』(桜楓社)、『王朝貴族物語』(講談社現代新書)、『平安貴族のシルクロード』(角川選書)、『こんなにも面白い日本の古典』(角川ソフィア文庫)、『創られたスサノオ神話』(中公叢書)、『こんなにも面白い万葉集』(PHP研究所)などがある。

 

死出の旅路へ

関白藤原道隆を祖とする一門で、皇后定子を出した中関白家は、道隆没後に子の伊周・隆家兄弟の従者による花山法皇襲撃事件などもあり、一門は急速に勢力を失う。没落状態の中で定子は亡くなった。臨終に及び、夫の一条天皇に、


知る人もなき別れ路に今はとて 心細くも急ぎ立つかな
(知人もいない死出の旅路に、今はこれまでと別れを告げ心細くも急ぎ出で立つことよ) 

皇后定子(『後拾遺和歌集』哀傷・『栄花物語』巻七)
 

と書き残し、御几帳の紐に結び付けて置いたという。漢詩文に通じた定子が、奈良時代末にできた初の漢詩集『懐風藻』にある、自刃させられた悲劇の大津皇子の「臨終」の詩、


金烏(きんう)は西の舎(や)に臨(て)り 鼓の声は短き命を催す 泉路(よみぢ)に賓主(ひんしゅ)無く この夕べ 誰が家にか向かふ
(太陽は西に傾いて西の方の家を照らし、時刻を告げる夕べの鼓の音は、短い命を更に短く実感させる。黄泉路には客も主人もなく、この夕、ただ一人私は誰の家に向かうのか)

大津皇子(『懐風藻』「臨終」)
 

に基づいて詠んだことは確実である。
遺言により亡骸は火葬ではなく土葬にされ、草葉の露となった。中関白家の没落を象徴する様ではないか。定子を囲む華麗な『枕草子』の世界を思うと感無量だ。

清少納言はこの頃も出仕を続け、『枕草子』にはこの年代のことも書かれているが、主家の斜陽も、定子の没についても記すことはない。忘れたわけではなく、知っていて封じ込めているようで、その方がはるかに苦しい。苦悩に満ちた清少納言の胸の内を察すると、目立ちたがり屋の派手な女だが、同情を禁じ得ない。

定子が皇后になり、間もなく死亡した長保2年(1000)に、年代の分かる『枕草子』の記事は終わる。定子の没を契機に清少納言は宮仕えを辞去したのか。

また、右大臣藤原実頼の子の右近衛少将正五位下敦敏は30歳で亡くなった。かつての乳母は陸奥守の妻となって下向していたために、敦敏の死を知らず、乳母子敦敏に陸奥の名馬を贈って来た。父実頼は、


まだ知らぬ人もありけり東路に 我も行きてぞ住むべかりける 
(亡き我が子に馬を献上してくる人のあるところを見ると、敦敏の死をまだ知らない人もいる東国に、私も行って住みたいよなあ)

藤原実頼(『後撰和歌集』哀傷)
 

とむせび泣くのであった。実頼はその馬を息子の身代わりとして、かわいがったであろう。息子が死んでいない仮想現実の世界に行って息子と共に生きたい。子に先立たれた親の悲哀がにじみ出ているではないか。

清少納言と武骨者の夫である橘則光の間に生まれた橘則長は、越中守として赴任し、翌年任地で没した。享年53だった。慣れない北陸の風土と生活に体を冒されたのだろう。
父則光は、同じく子を喪った友人に、


語らばやこの世の夢のはかなさを 君ばかりこそ思ひ合はせめ 
( 此の世は夢、そのはかなさを貴方と語り合いたい。貴方だけがこの悲しみを理解できるだろうから)

橘則光(『続詞花和歌集』哀傷)
 

と送るのであった。
弟の季通も兄の死を悲しみ、女房相模に、


思ひ出づや思ひ出づるに悲しきは 別れながらの別れなりけり
(思い出していただけるだろうか。思い出してみると悲しいことは、越中赴任の別れをし、更に死の別れをしたことです)

橘季通(『後拾遺和歌集』哀傷)
 

とダブル離別の悲しみを訴えたのである。

地方赴任は家族同伴が許されているので、父の後を追って赴任先に行き、没した子もいる。紫式部の弟惟規(のぶのり)がそうだ。

惟規は父為時から『史記』を習った時に、なかなか理解せず、紫式部の方が出来は良かったというエピソードで知能偏差値を落とした男だが、女への偏差値は高かった。惟規が夜な夜な通い、警護の者に見とがめられた斎院中将、文章生として先輩の藤原貞仲の娘、そして父の赴任先の越後に同伴した女などが惟規の恋人として数えられる。

惟規が越後へ女を伴い、日本海を舟で行ったことは、「越の方に罷りし時、諸共なりし女(越後に下った時に同伴した女)」の歌として、


荒れ海も風間も待たず船出して 君さへ浪に濡れもこそすれ
(荒れた海を風の止む間も待たないで船出して、貴方は波で濡れてぐっしょり) 

女(『藤原惟規集』)
 

と詠んだ女の歌で分かる。斎院中将は都にいるのでこの女は別人で、二人の道行が始まる。
敦賀からは舟で、海女の乗る舟が波間に見える。惟規は、


浮き沈み波にやつるる海女舟の 安げもなきは我が身なりけり
(波間に浮いたり沈んだり、不安定な海女舟の様は、我が身と同じだ)

藤原惟規(『藤原惟規集』)
 

と溜息をつく。従五位下式部丞の職を投げ出しての、女との道行。確かに浮沈し、安定のない生き方だ。こうして波を被り寒気をもよおして急性肺炎か、冷えて腸炎でも起こしたのか。男は危篤の状態で父親の許にたどり着き、道行の幕は閉じる。

父はせめて極楽に行けるようにと、僧を招き説教を依頼したが、ドライな息子は臨終だというのに説教を聞かばこそ、「あの世には美しく散る紅葉や尾花の陰で鳴く鈴虫もおりましょうか」と、説教を聞き念仏を唱えるどころか、死の床にあっても花よ虫よと夢見ていたのだ。

惟規は苦しい息の下で、かすかに手を動かし、物を書く真似をした。父為時が墨をつけた筆と紙を与えると、「都にも恋しき人の数多あれば なほこの度は生かむとぞおも」とまで書いて、筆をバッタリと落とし息絶えた。父親は最後の一字を書き加えたのであった。


都にも恋しき人の数多あれば なほこの度は生かむとぞおもふ
(都には多くの恋しい人がいるので、何としても今度は生きたいと思うのだ)

藤原惟規(『後拾遺和歌集』恋三・『今昔物語集』巻第三十一)
 

我が子のこの形見を見て父は泣き、泣いては見、涙に濡れきった紙は破れ失せたという。
惟規は命を投げ出して父に逢いに行き、親より先に死出の旅に出るという結果になったが、辞世の歌では、離れている都の女を恋しいと歌っているので、「恋死に」の類か。

なお、このエピソードは『後拾遺和歌集』では極めて簡略に「父の許に、越の国に侍りける時」とあるだけなので『今昔物語集』より採った。『今昔物語集』では「越中守為善」の話になっているのは、仏教と関係のある越中立山の見える所で惟規の死を考えた『今昔物語集』作者の作為であろう。

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