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清少納言の「宮廷女房への成り上がり」 を叶えた和歌の才能

山口博(富山大学・聖徳大学名誉教授)

百人一首

『枕草子』の筆者として知られる清少納言。華やかな平安宮中で、一条天皇の中宮・定子の女房として活躍しました。紫式部も嫉妬したという、清少納言の"和歌の才能"は当時どう評価されていたのでしょうか? 女房社会における「和歌」の重要性について紹介します。

※本稿は、山口博著『悩める平安貴族たち』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

【山口博(やまぐち・ひろし)】
1932年、東京生まれ。東京都立大学大学院博士課程単位取得退学。富山大学・聖徳大学名誉教授、元新潟大学教授。文学博士。カルチャースクールでの物語性あふれる語り口に定評がある。著書に、『王朝歌檀の研究』(桜楓社)、『王朝貴族物語』(講談社現代新書)、『平安貴族のシルクロード』(角川選書)、『こんなにも面白い日本の古典』(角川ソフィア文庫)、『創られたスサノオ神話』(中公叢書)、『こんなにも面白い万葉集』(PHP研究所)などがある。

 

女房生活を謳歌していた清少納言

平安時代、親王家や上流貴族に仕える女を「女房」と呼んだが、最も著名な女房は清少納言と紫式部だろう。清少納言はエッセイ集『枕草子』を書き、紫式部は長編小説『源氏物語』を残したことにより、有名人として私たちにインプットされているのかもしれない。

清少納言は一時結婚したが、離婚し、家庭生活にうんざりしていた。そこにその才を買われて、関白内大臣正二位藤原道隆の娘中宮(ていし)の許に、私的な女房として出仕する話が舞い込んだ。28歳頃である。その後、清少納言は定子の死去まで8年間程仕えた。

清少納言の父清原元輔の階級は、紫式部が「数にしもあらぬ(物の数ではない)五位」(『紫式部日記』)と蔑視した五位だが、清少納言には出身階級を脱皮して、ひたすら上流に同化しようとする姿勢がうかがわれる。

清少納言がどのように女房生活を謳歌したかは『枕草子』に十分に書かれている。

正月七日の若菜摘みの際に、牛車のの間から覗き、「をかし(心ひかれる・美しい)」を連発する(『枕草子』「正月一日は」段)。

また、殿の縁側に置かれた青磁大甕に活けられた1メートル半を越える見事な桜の枝と、それを見る桜のを着た定子の兄、大納言藤原伊周(これちか)、これらを桜がさねのを着た簾の中の女房たちと共に眺める清少納言は「うらうらとのどかなる日の気色」を満喫するのである(『枕草子』「清涼殿の丑寅の隅の」段)。

清少納言は桜を眺める定子の側に控えていて、『古今和歌集』春上部にある、


(ふ)れば(よわい)は老いぬしかはあれど 花をし見れば物思ひもなし

太政大臣藤原良房(『古今和歌集』春上) 
 

の「花(桜)」を「君(定子)」に置き換え、 


年経れば齢は老いぬしかはあれど 君をし見れば物思ひもなし
(私も年月が経ったので年を取ってしまった。しかし、定子様を拝見していると憂鬱さも消えてなくなるわ)

清少納言(『枕草子』「清涼殿の丑寅の隅の」段)
 

と歌ったのである。桜の花のような美しいお顔を讃えたのだ。そして定子から「ただこの心ばへどものゆかしかりつるぞ(貴女の心の働きにひかれる)」と褒められるという件が続く。

清少納言と定子は、漢詩文の教養においても通じるところがあった。平安時代、漢詩文は男子専用のものであり、女子が漢詩文を作るなど、冷たい目で見られていた。そのような中にあって、定子の母は男子の作る漢詩文を凌駕するほどの作品を作り、朝廷から作文を命じられている。その母の血を定子は引き継いでいたのだろう。

一方、清少納言の父元輔は歌人として知られているが、漢文の読解・表記を必要とする大蔵省や民部省など中央政府官僚を務め、更に漢字・漢文で書写された『万葉集』の訓読に携わっていたことから、漢文学の教養も当然あり、清少納言はそれを受け継いでいたと思われる。

漢文学専攻のなどでなければ知らないという「谷関」の故事(『枕草子』「の、にまいりたまひて」段)を記していることなどは、漢文学の教養の表れであろう。

函谷関の故事というのは、『史記』にある孟嘗君の話だ。捕らわれそうになった蒙嘗は、夜明けを告げる鶏の声を真似させ、関を開門させて逃げたという。

夜更けまで清少納言と話をしていた藤原行成は早々に帰り、その言い訳に「鶏の声にせき立てられて」と言ってきた。それに対して清少納言は函谷関の故事を生かして歌を返した。


夜(よ)をこめて鳥の空音(そらね)は(はか)るとも 世に逢坂(おうさか)の関は許さじ
(夜のまだ明けないうちに、鶏の声色を使って函谷関の関守は騙しても、男女が逢うというこの逢坂の関所は、決して騙して通ることはできませんよ)

清少納言(『枕草子』「頭弁の、職にまいりたまひて」段)
 

「世」は男女の親密な間柄の意で、清少納言は共寝をした翌朝、男から女に送る後朝(きぬぎぬ)の歌めかして詠んだのだ。紫式部は清少納言を文学面で目の敵にしているのだが、それは、「漢字を書き散らす」(『紫式部日記』)清少納言の学に対するジェラシーもあったのではないか。

 

女房社会を謳歌するための必須条件

大歌人である元輔の娘だけあって、その自負もある一方で、重苦しかったに違いない。定子や大臣の前で、人々が歌を詠む中で清少納言は黙したまま。


元輔が(のち)と言はるる君しもや の歌にれてはをる
(大歌人元輔の子と言われるそなたが、なぜ今宵の歌に加わらないで控えているのか) 

中宮定子(『枕草子』「五月の御精進のほど」段)
 

と定子が言うと、 


その人のと言はれぬ身なりせば 今宵の歌は(ま)ずぞ詠ままし
(もし私が元輔の娘と言われないならば、今宵の歌は真っ先に詠みましょうに。父には及ばないので恥ずかしくて)     

清少納言(『枕草子』「五月の御精進のほど」段)
 

と清少納言は返歌するのである。「父に遠慮する必要がなければ、千首の歌でも口をついて出て来るでしょう」と歌才を誇りたかったのか、父の存在が「重苦しいんだよ!」と叫びたかったのか。

それだから、「かたはらいたきもの(はらはらして困るもの)」として、「にうまいとも思われない歌を詠み、人に披露して、人が褒めたなどと自慢するのは、聞いてはいられない感じだ」(『枕草子』「かたはらいたきもの」段)と、他の女房をこき下ろすのである。

その一方で、「うらやましきもの」として、「字がうまく歌を上手に詠み、何かの折に真っ先に選び出される人」(『枕草子』「うらやましきもの」段)と言い、「人と言い交わした歌が評判になって、メモなどに書き留められ褒められるのは、嬉しいことだろう」(『枕草子』「嬉しきもの」段)とするのは理解できるが、続いて「自分には経験のないことだけれど」とまで書かれると、卑屈ささえ感じてしまう。

これらのエピソードは、女房社会を謳歌するには、歌を詠むことがいかに大事であったかを物語る。

ある大臣は娘を将来女御にする目的で、教育のために「『古今和歌集』二十巻の歌を作者・詞書共にすべて暗記せよ」と命じたという話が『枕草子』(「清涼殿の丑寅の隅の」段)にある。

清少納言は定子とその周囲が栄えた素晴らしい様をのみ『枕草子』に描き、定子の兄弟の伊周隆家が左遷されたことや、父親の関白道隆を中心とした中関白家の衰退に伴う定子の悲境について、いささかも言及していない。

関白道隆一門、すなわち中関白家を核とする華麗な社会と、そこに身を置く幸せを描いて『枕草子』は終わっているのである。

 

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