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亡き人恋ふる宿の秋風 和歌に込めた平安貴族の「死」への想い

2025年08月01日 公開

山口博(富山大学・聖徳大学名誉教授)

和歌に詠まれた「死」

平安時代の和歌を掲載する歌集は、『古今和歌集』から『新古今和歌集』に至る勅撰八代集だけではない。『紫式部集』『清少納言集』など、個人歌集が平安時代だけでも172人分は知られている。

そこには、自然の美しい風物を愛でる花鳥風月の歌は少なく、躍動する人間の日常の姿が刻み込まれている。これらを取り込むことにより、初めて王朝貴族たちの色好み、政権争い、栄光と没落など、悩める平安貴族たちの群像図絵を画き出すことができるのだ。

本稿では、和歌に詠われた「死」について、富山大学・聖徳大学名誉教授の山口博さんに解説して頂いた。

※本稿は、山口博著『悩める平安貴族たち』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

【山口博(やまぐち・ひろし)】
1932年、東京生まれ。東京都立大学大学院博士課程単位取得退学。富山大学・聖徳大学名誉教授、元新潟大学教授。文学博士。2024年 逝去。
著書に、『王朝歌檀の研究』(桜楓社)、『王朝貴族物語』(講談社現代新書)、『平安貴族のシルクロード』(角川選書)、『こんなにも面白い日本の古典』(角川ソフィア文庫)、『創られたスサノオ神話』(中公叢書)、『こんなにも面白い万葉集』(PHP研究所)などがある。

 

秋の露の消ゆるが如く 

「死」というこのおぞましい暗黒のようなシーンを、紫式部は実に美しく描く。『源氏物語』のヒロイン紫上は、食べ物は一切受け付けず、起き上がることもできない重篤に陥った。

光源氏は財を尽くして例の如く「御祈禱ども数知らず始めさせ給ふ。僧召して、御加持などせさせ給ふ(限りなく多くの病回復の祈禱をお始めになった。僧侶をお呼びになり加持などをさせる)」のであった(『源氏物語』第三十五帖「若菜下」)。

それから4年、回復の兆しは見えず紫上の死期が近づいた。光源氏や養女の明石中宮と交わした歌が、紫上の最後の歌となった。紫上は、


おくと見る程ぞはかなきともすれば 風に乱るる萩の上露
(私がこうして起きていると御覧になっても、それは束の間のこと。萩の葉に露が置いたと思う間もなく、ややもするとあっけなく風に乱れ散るように、私もやがて消え果てるでしょう)

紫上(『源氏物語』第四十帖「御法」)
 

と、悲しい気持ちで詠んだ。「おく」は「起く」と「置く」を掛ける。中宮が手を取ると消えゆく露のようだった。この寂しく涙を誘う歌を、夫の光源氏は息の止まる思いで聞いたに違いない。病む人の口から、死をほのめかす言葉を聞くことほど辛いことはない。病人は第一の患者で、家族は第二の患者だ。


まことに消えゆく露の心地して、限りに見え給へば、御誦経の使ども数も知らずたち騒ぎたり。先々も、かくて生き出で給ふ折りにならひ給ひて、御物の怪と疑ひ給ひて、夜一夜(よひとよ)様々の事をし尽くさせ給へど、かひもなく、明け果つるほどに、消え果て給ひぬ。  
(本当に消えゆく露そのままの御様子で、もはや御臨終と見受けられるので、読経の使者も大勢立ち騒ぐのであった。前にも幾度かこのような状態になられてから息を吹き返されたことがあったので、またその時のようにこの度も物の怪の仕業かと疑いなされ、一晩中様々の修法の限りを尽くされたが、そのかいもなく夜の明け果てる頃に息絶えてしまわれた)

(『源氏物語』第四十帖「御法」)
 

紫上は消え果てた。季節は夏や冬ではもちろんなく、桜爛漫の春でもない。作者は秋を選んだ。古今歌人壬生忠岑は、


時しもあれ秋やは人の別るべき あるを見るだに恋しきものを
(季節もあろうに、ただでさえ物悲しいこの秋に、人が死に別れていいものだろうか。そうではあるまい。生きて元気でいる人を見ても恋しくなるような心細い時に)  

壬生忠岑(『古今和歌集』哀傷)
 

と、逆説的に秋の死別を悲しんだが、その「人の別るべき」ではない最も悲哀感のにじむ秋に紫上は消えた、露が消えるように。享年43。まだ美貌の消え失せぬ年齢だが、作者は老醜を曝すことを避けたのだ。

今日的に言うなら老衰だが、そのような野暮な言葉を作者は使わない。「消え果て給ひぬ」と書く。『源氏物語』には多くの死が描かれているが、秋の花の上の露のように「消え果つ」と美化されて書かれているのは、紫上だけだ。物寂しい秋の中に溶け込むように、物語のヒロインは消えていった。

光源氏の最初の正妻葵上の死も秋であった(『源氏物語』第九帖「葵」)。宮中で秋の人事が行われている夜、いつものように六条御息所の生霊が憑依し、「絶え入り給ひぬ」であり、邸宅内は慌てふためきざわつき、秋のしっとりとした雰囲気はどこにもない。辞世の歌もない。横たわった体は「やうやう変はり給ふことどものあれば(だんだん死相が現れてくるので)」と目をそむけたくなるような、死相の現れた様さえ描いている。

『源氏物語』を愛し、主要な写本系の「青表紙本」を書いた藤原定家の母が亡くなったのも秋だ。定家は秋風の吹く日に母の住んでいた家に行き、


たまゆらの露も涙もとどまらず 亡き人恋ふる宿の秋風 
(しばしの間にも草葉に置く露も私の涙も止まらない。亡くなった人の家に吹き付ける野分の風によって)

藤原定家(『新古今和歌集』哀傷歌)
 

とむせび泣いた。「野分」は野の草を分けて吹く強風のこと。「たまゆらの」は「しばしの」の意。「とどまらず」は「露も涙も止まらず」と、この世に「留まらない」亡き人を掛ける。
母と同居していた定家の父俊成は、


秋になり風の涼しく変はるにも 涙の露ぞしのに散りける
(秋になって風が涼しくなるにつけても、涙の露がしっとりと宿の草葉に散っているなあ)     

藤原俊成(『拾遺愚草』巻下「無常」)
 

と返歌した。

野分の吹いた後に子が親を訪ねるシーンは、『源氏物語』第二十八帖「野分」で、父の光源氏がいる六条院を、子の近衛中将夕霧が訪問する場面を想起させる。「(まばらな小萩は)折れ返り、露もとまるまじく吹き散らすを(まばらに生えている小萩の枝はあちこちにしなって少しの露も残らぬほどに吹き散らしているのを)」(『源氏物語』第二十八帖「野分」)などを追憶しながら、定家は詠んだのだろうか。

宇多天皇の勅命により家集『句題和歌』(『大江千里集』)を撰集・献上した正五位下の大江千里が亡くなったのも秋だった。病も重く余命いくばくもないと心細くなり、友人に、


もみぢ葉を風に任せて見るよりも はかなきものは命なりけり 
( 紅葉の葉を風にまかせて散らすよりも、もっとはかないものは、命なのだなあ)

大江千里(『古今和歌集』哀傷)
 

と送った。野分は草葉の露を吹き散らし、秋風は紅葉を吹き散らす。それらより更にはかなく吹き散らされるのは命。これは辞世の歌だ。涙ながらにこの歌を書いたのだろう。当然のことながら『句題和歌』(『大江千里集』)にはない。

紫上の死をしっとりと描いた作者自身の死が、秋であったのかどうかは分からない。墓は昔から京都市北区紫野にある雲林院白毫院南と伝えられている。「紫野」の名は作者やヒロインにふさわしく、雲林院は光源氏が継母藤壺宮との恋の悩みから参籠したとされる寺である。

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