
7世紀、中臣鎌足が天智天皇から「藤原」姓を賜ったことに始まる藤原氏。
婚姻によって天皇家と結びつく一方で、他の有力氏族を排斥し、その地位を強化していった。やがては一族内における、氏長者をめぐる争いも起こり──。摂関政治を確立し、絶大な権力を有するに至るまで、藤原一族の歴史を歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。
※本稿は、『歴史街道』2024年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです

藤原氏の始祖は藤原鎌足である。もとは中臣姓を称していたが、臨終のさいに天智天皇から「藤原」姓を賜ったことで、藤原氏の歴史が始まった。
中臣氏は朝廷の祭祀を司る家柄で、鎌足は中臣御食子の子として、大和国高市郡に生まれた。幼いころから学問を好み、留学生として唐に滞在していた南淵請安の塾で学ぶうち、「日本も唐のように、天皇を中心とする律令国家になるべきだ」と考えるようになった。
当時は、蘇我蝦夷・入鹿父子が天皇をしのぐ勢力を持っていたが、鎌足は蘇我氏打倒を決意し、皇極天皇の子・中大兄皇子に接触、共にクーデター計画を立てた。
そして645年6月、偽の儀式の場に蘇我入鹿をおびき出して暗殺。さらに、蝦夷の邸宅を囲んで自殺に追い込んだ。
こうして蘇我氏を滅ぼすと、人事が刷新され、孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子、鎌足は内臣となった。鎌足はその後も、中大兄皇子(天智天皇)の側近として外交や法の整備などに力を尽くし、669年に重病となって56歳で死去した。
天智はその労に報い、鎌足に大織冠 (最高位)と「藤原」の姓を与えたのである。
鎌足が死んだとき、息子の不比等は11歳の少年であったが、30代になると、天武天皇の皇后・鸕野讚良 (のちの持統天皇)の絶大な信任を得て、力を伸ばしていく。
鸕野讚良は、息子の草壁皇子が死去すると、即位して持統天皇となるが、研究者の土橋寛氏は、このおり草壁と親しかった不比等と盟約を結んだと論じる。
その内容だが、幼い孫の珂瑠皇子(草壁の子)を天皇にすることを不比等に約束させ、代わりに不比等の娘・宮子を珂瑠の妻とするといったものだったという。
697年、珂瑠皇子が15歳で即位し、文武天皇となった。不比等の功績が大きかったのだろう、この年、宮子は文武の夫人となった。
天皇の妻には皇后、妃、夫人、嬪の4種類があり、皇后と妃は皇族しか就くことができない。文武は生涯、皇后や妃を持たなかったので、事実上、夫人である宮子が皇后の地位にあったわけだ。
大宝元年(701)の大宝律令制定の功績により、不比等は正三位大納言に就任。同年、文武と宮子との間に首皇子(のちの聖武天皇)が誕生する。
ところが、文武は25歳で没してしまう。不比等としては文武のもとで権力を保持し、やがては孫の首皇子を天皇にすえて天皇の外戚として、藤原氏の力を盤石にしようと考えていただろうから、大きな痛手だった。
やがて不比等は正二位右大臣に就いたが、彼にとって、首皇子にどう皇位を継承させるかが最大の課題となった。
和銅元年(708)2月、元明天皇(文武の実母で、首皇子の祖母)は詔勅を出して、藤原京から平城京への遷都を宣言した。遷都を強行させたのは不比等であった。
研究者の林陸朗氏は、新しい都で不比等の邸宅と首皇子の邸宅を隣接させ、そばで孫の成長を見守り養護しようとしたのだと述べる。つまり平城京遷都は、不比等の権力を維持するための大事業だったというのだ。
遷都にあたり不比等は、藤原氏の氏寺(興福寺)も新都に移したが、この壮麗な寺院は高台に置かれ、京域のどこからでもその姿が見える仕掛けになっており、人びとは常に藤原氏の権力を実感させられることになった。巧みな戦略である。
霊亀2年(716)、不比等は娘の安宿媛 (光明子)を首皇子に入内させた。つまり、自分の娘(宮子)が生んだ孫(首皇子)に、別の我が子を輿入れさせたわけだ。
安宿媛は養老2年(718)に阿倍内親王(のちの孝謙天皇)を生み、不比等の息子たちも高位高官にのぼった。こうして一代で藤原氏の勢力を伸張させた不比等は、養老4年(720)8月、63歳で死去した。

不比等の死後、息子たち(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は若かったので長屋王が政治を主導したが、やがて藤原四子(四兄弟)が力を伸ばし、妹の光明子を聖武天皇の皇后にするよう、長屋王に要求した。
これまで皇族以外から皇后が出たためしはなく、長屋王は難色を示した。すると四子が長屋王に謀反の疑いをかけて、邸宅を兵で囲んだため、王は自殺した(長屋王の変)。
政敵を排除した四子は、光明子を皇后にすえ実権を握ったが、天平9年(737)、4人とも疱瘡(天然痘)で亡くなってしまう。
なお、四子の系統は、後に南家(武智麻呂)、北家 (房前)、式家 (宇合)、京家(麻呂)と呼ばれるようになった。後年、摂関政治を行なうのは北家である。
四子の没後、皇族出身の橘諸兄が政権をになったが、やがて光明皇后に寵愛された藤原仲麻呂が台頭する。
仲麻呂は武智麻呂の次男で、藤原広嗣(宇合の子)の乱のとき、騎兵大将軍として聖武や光明の護衛にあたったことで、信頼を勝ち得るようになった。
やがて橘諸兄や兄の豊成が失脚すると、仲麻呂は太政官のトップに立った。聖武上皇は崩御する直前、皇太子に新田部親王(天武天皇の子)の子・道祖王を任命したのだが、その後、孝謙天皇は日ごろの不行跡を理由に道祖王を廃し、大炊王(舎人親王の七男)を皇太子にしたのである。
大炊王は、仲麻呂の亡き息子の妻を娶り、仲麻呂邸に同居していた。そんな人物を皇太子にしたのは、もちろん仲麻呂の強い希望があったからだろう。
天平宝字2年(758)、孝謙は大炊王(淳仁天皇)に譲位して上皇となった。淳仁は、仲麻呂に恵美の姓と押勝の名を与え、太保(右大臣)に叙した。
以後、淳仁のもとで仲麻呂は思うがままに権力をふるい、天平宝字4年(760)には従一位太師(太政大臣)に、2年後にはついに正一位となった。しかし天平宝字4年には、仲麻呂を寵愛していた光明皇太后が60歳で死去している。
そうしたなか、孝謙上皇が僧の道鏡を寵愛するようになった。仲麻呂が淳仁を通じて孝謙に注意を与えると、激怒した孝謙は、政権奪還宣言をする。焦った仲麻呂は武力蜂起(恵美押勝の乱)したが、あっけなく敗れて殺されてしまった。
その後、孝謙が重祚して称徳天皇となり、道鏡に仏教政治を展開させたが、称徳の死去にともなって道鏡は失脚。称徳天皇には近親者がいなかったため、実力者の藤原百川(式家)らが、天智の孫にあたる白壁王(光仁天皇)を即位させた。
こうして皇統は天武系から天智系に移り、光仁の子・桓武天皇は都を長岡京、さらに平安京に遷都して天皇親政をおこなった。

桓武没後は子の安殿親王が平城天皇になったが、病気のため3年で皇位を弟(嵯峨天皇)に譲り、多数の貴族・官僚を率いて旧平城京へ移った。ところが健康を取り戻し、寵愛する藤原薬子(式家)とその兄・仲成と結んで復位に動き、勅を発しはじめた。
嵯峨天皇は上皇方との対決を決意。藤原仲成を殺し、平城上皇を出家させたのである(薬子の変)。薬子は毒をあおいで自殺した。
これによって、宇合を祖とする式家の政治力は衰退したが、その後も天皇の生母を輩出し、後宮ではしばらく隆盛を保った。
いっぽう台頭したのが、房前を祖とする北家であった。嵯峨天皇は、詔勅の伝達や訴訟を太政官に取り次ぐ蔵人所を立ち上げ、リーダーの蔵人頭に北家の冬嗣をすえた。
嵯峨のもとで冬嗣は栄達し、弘仁12年(821)には右大臣となって政治を主導、左近衛大将として軍事も統括するようになっていた。
弘仁14年(823)、嵯峨は弟の大伴親王(淳和天皇)に譲位するが、冬嗣はこの頃、嵯峨の娘(源潔姫)を息子・良房の妻とし、自分の娘(順子)を皇太子の正良親王(嵯峨の子。のちの仁明天皇)へ輿入れさせた。こうして天皇家と強く結びついた冬嗣は、淳和のもとで左大臣に昇り、天長3年(826)に52歳で逝去した。
冬嗣は北家の力を一気に強めたが、その子・良房も太政大臣に昇り、幼い外孫の清和天皇のもとで臣下として初めて摂政の地位に就いた。その地位は良房の養子・基経に受け継がれ、さらに基経は関白の地位に就く。成人した天皇のもとで、摂政同様の仕事をこなす役職だが、これは基経のために設けられたものであった。
良房と基経の時代以降、北家は次々と有力な貴族を蹴落としていった。承和9年(842)、良房は、伴健岑と橘逸勢を謀反の疑いで配流した(承和の変)。この事件には式家の5人も連座し、式家の力がさらに弱まった。京家はいち早く落ちぶれており、すでに南家も恵美押勝の乱で失墜している。
朝廷の政治をになう太政官の太政・左・右大臣、大納言、中納言、参議などを議政官と呼び、平安時代初めから十数名で推移していた。このうち3割から4割を藤原氏が占めてきたが、承和の変以後、藤原氏の議政官はほぼ北家の独占状態になった。
貞観8年(866)、平安宮大内裏の朝堂院への入口に立つ応天門が燃え落ちた。大納言の伴善男は、右大臣の藤原良相に対し「応天門に放火したのは、左大臣の源信の仕業である」と告げた。
そこで良相は、兵を送って源信の屋敷を包囲。同時に甥の基経に事実を教え、基経は養父の良房に言上した。
ところが後日、伴善男が息子・中庸らに命じて応天門に火をつけさせ、その罪を源信になすりつけて失脚させようとしたことが判明。伴善男・中庸父子は流罪となり、源信も放火の疑いを受けたことを恥じ、出仕しなくなってしまった。結果として伴氏と源氏は力を失い、北家がますます強大化した(応天門の変)。
仁和3年(887)、即位した宇多天皇は、橘広相に起草させた勅書を基経に与えた。引き続き関白として政治の補佐を求める内容だったが、勅書に「阿衡に任ずる」との文言があった。
基経は「阿衡は古代中国の高い地位だが、実際の職務はない。俺を名誉職に祭りあげようというのか」と腹を立て、出仕しなくなってしまったという(阿衡の紛議)。
基経が怒ってみせた背景には、橘広相を失脚させる狙いがあった。広相は娘を宇多天皇に輿入れさせ、2人の皇子をもうけていた。その皇子が即位すれば、広相が外戚として力をふるうことになる。だからこうした態度に出たのである。
宇多天皇は仕方なく広相を失脚させ、基経の娘・温子を女御 (妻)にすることで解決をはかった。いずれにせよ、この阿衡の紛議によって、関白としての基経の政治的立場は強化されたのである。
そうしたこともあって、宇多天皇は基経の死後、摂政や関白を置かず、学者の家柄である菅原道真を重用し、藤原北家に対抗させた。さらに退位するとき、息子の醍醐天皇に道真を重用するよう伝えたのである。このため、道真は右大臣まで登りつめた。
ところが基経の長男で左大臣の時平が「道真が女婿・斉世親王を即位させようとしている」と告訴したので、醍醐天皇は道真を大宰権帥として大宰府へ左遷した(昌泰の変)。しかし時平はそれから数年後、39歳の若さで死去してしまう。
その後は、弟の忠平が醍醐天皇の政治(延喜の治)をささえ、醍醐の死後、朱雀天皇のもとで摂政・関白になった。続く村上天皇のもとでも関白を続けたが、数年後に死去した。
かわって忠平の長男・実頼が、村上天皇の政治(天暦の治)を補佐。この延喜・天暦の治は、醍醐・村上天皇が親政を行なって律令政治の再建を果たしたとされ、後世では「聖世」と賛美されたが、実際は藤原氏北家の力が強大だった。
冷泉天皇が即位すると、実頼が関白となるが、安和2年(969)、「左大臣の源高明が謀反を企んでいる」という源満仲の密告があり、高明は大宰府へ左遷された。
これを安和の変といい、以後、北家に対抗しうる他氏は消滅し、摂政・関白が常置され、藤原氏北家がその職を独占するようになった。こうして、摂関政治を確立させていったのである。

北家は、摂政・関白を出す家柄という意味から摂関家と呼ばれたが、有力な他氏が排除されたあと、摂関職をめぐって、北家一族間で泥沼の抗争が繰り広げられるようになった。
摂関職にある人物は、藤原氏北家の「氏長者」も兼ねた。その一族の首長のことで、氏全体を統率し、氏寺や氏社、大学別曹などを管理し、一族が任官したり、叙位される際の推挙権も持っていた。
家政をつかさどる摂関家政所もあり、朝廷から与えられた家司(職員)を用いて膨大な封戸(財産)を管理させるなど、絶大な権限を有した。
北家の男として生まれたからには、何としても摂関職=氏長者になりたい──だが、摂関職になるためには運が大きく左右した。天皇の外戚(母方の親戚)になることが必要だったため、自身の妹や娘を天皇の妻とするわけだが、皇子を生んでくれなければ外戚にはなれない。
たとえば関白の実頼は、村上天皇の女御とした娘に皇子が生まれなかった。一方、実頼の弟・師輔の娘である安子は、村上天皇との間に三皇子をもうけた。やがて彼らが即位していったことで、師輔の子孫(九条流)が摂関家(北家)の嫡流となったのである。
そんな九条流のなかでも、激しい権力闘争がおこっている。師輔の次男・藤原兼通と三男・兼家、さらに兼家の五男・道長と伊周(兼家の長男・道隆の嫡男)の争いである。
五男の道長は、通常なら権力者になるのは難しいのだが、兄たちが次々と死んだうえ、兄の娘にまだ皇子がいなかったことが幸いした。
ライバルの伊周の妹・定子はすでに一条天皇の皇后となっていたが、彼女が皇子を生む前に、伊周が失態を犯して失脚。その後、道長は娘の彰子を一条天皇に入内させ、彼女が皇子を生んだことで外戚となった。
さらに娘の妍子を三条天皇の、威子を後一条天皇の中宮(皇后)とし、一家から三后が出たことで、約30年間、道長は権力の座にとどまり続けることができたのである。
その余得により、道長の後を継いだ息子の頼通は半世紀の間、権力者の地位にあった。だが、ついに娘は皇子を生まず、結局、藤原氏北家を外戚としない後三条天皇が即位、摂関政治は終わりを告げたのである。
更新:07月04日 00:05